2016/2/15-20

2016/2/15 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ3:1-7 賛美 新聖歌 433
 ぺトロは「夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」と語る。この箇所について小畑進は『妻は〈女性〉で、自分よりも「弱い器」なのだ、と。これは、男性の横暴を制することばであって、妻・女性を劣等視するものでは決してありません。その証拠に、つづいて、「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい」と、肱しいパートナーとしての妻の姿が描かれる次第なのです。夫と妻、男と女とには、精神力、体力に強弱があろうとも、「いのちの恵み」・「永遠のいのちの恵み」を受ける分には上下はなく、優劣はなく、先後なく、同等という玄之又玄の綾織りなのです。夫と妻、男と女の地上の幸福が、この世のことに尽きず、永遠の生命、天の御国での幸福に展開する!ここにも地上のことが地上に尽きず、天上に反映して完成するハーモニーを見ることができましょう。』と述べ、更に「彼ペテロ自身が妻をもつ一人の夫だったのです。荒くれ漁師、しかも粗笨なところのあったベテロの、この女性への思いやり、敬意の言葉は、やはり多年にわたる御霊の御薫陶によるものだったのでしょうか」(小畑進著作集第5巻ペテロの手紙第一講録P284いのちのことば社)と述べている。妻は体力その他に面において夫よりも弱さを持っているかもしれない。しかし神は夫と共に命の恵みを共に受け継ぐ者としてくださっているのである。それ故、尊敬と愛をもってともに生きるべきである。

2016/2/16(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書28:1-6 賛美 新聖歌354
 北王国に再び目が向けられる。イスラエルのぶどう畑に囲まれた平野の頂きに建てられた美しい町サマリアの姿が描かれる。人々は苦労して築いてきた町が永く繁栄することを願い、信じていただろう。しかし主はその美しさを見ながら、それはしぼんでゆく花にすぎないと言われる。どうしてこのようなことが言えるのか。それは主ご自身が力を持って臨み、御足で踏みにじられるからである。主から離れて偶像礼拝に陥り、人間の手によって築いた栄華は神の目に喜ばれず、御心によって神の時に踏みにじられるのである。一方で麗しい冠となるものがある。それは万軍の主ご自身である。
 人間は神から離れていても繁栄を体験することがある。その時には自分の力こそが信頼できると傲慢になる。しかしその繁栄は神の恵みではない。神はご自分に忠実な者を時が来たら顧みられる。神に不忠実な者は神に喜ばれないが故に、最終的に踏みにじられるのである。大切なことは自分の手による繁栄の獲得ではなく、神へのまことの信頼である。

2016/2/17(水) 担当 高谷清師  ?ペテ3:1-7  賛美 友よ歌おう74
 そうすれば「あなたがたの祈りが妨げられることはありません」と言う。この箇所について小畑進は「ペテロも、夫婦喧嘩をして、後味わるく、その日の祈りが乱れた経験をなめたことがあるのでしょうか。日常の生活が、人との暮らし向きが、妻とのやりとりが、神との関係に交錯するのです。人への態度、妻への態度が、天への態度、神への態度と交差するのです。対人関係と対神関係が綾をなすのです」(小畑進著作集第5巻ペテロの手紙第一講録P285いのちのことば社)と述べている。またヨハネは『「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。』(?ヨハ4:20)と述べている。私を愛しその救いのために流された主の血潮は、妻の救いのための血潮であり、兄弟姉妹の救いのための血潮であり、主が愛されるすべての人々の救いのための血潮である。妻を、兄弟姉妹を、そして主に造られたすべての魂を愛する愛に満たされる者となろう。その時私たちは神を愛する者となり、祈りを妨げるものは無くなるのである。

2016/2/18(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書28:7-13 賛美 新聖歌312
 エフライムへの呼びかけから始まり、7節からはユダの人々への言葉へと移っていく。民を神の前に導くべき祭司や預言者達が酒に酔い、よろめき、意味をなさない言葉を語る。彼らの堕落ぶりがこの意味をなさない言葉によって辛辣な皮肉と共にあらわされている。この様に不忠実な歩みを続ける人々は最終的に倒れ、とらえられる。
 過去に祭司や預言者として仕えてきたという実績や地位から、この人々は何をしても神の恵みを受け続けるという保証は語られていない。むしろ、彼らが教えるべき戒めを教えず、民を迷わせることによって彼ら自らも、また民全体もが裁きを受けるのである。主の奉仕をさせていただくということは自分のみならず、多くの兄弟姉妹にも影響を及ぼすことであり、それ故により一層真実に神に仕えていかなければならない。

2016//2/19(金) 担当 高谷清師  詩編13:1-6  賛美 新聖歌 40
この詩の記者は長い苦難の中に在って主に訴えている。「いつまで、主よわたしを忘れておられるのか」「いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。」「いつまで、わたしの魂は思い煩い日々の嘆きが心を去らないのか。」「いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。」と。4回繰り返される「いつまで」の間にはそれぞれの間に相当の時間の経過があったであろう。そして主に祈り求める「わたしの神、主よ、顧みてわたしに答えわたしの目に光を与えてください」「死の眠りに就くことのないように」「敵が勝ったと思うことのないように」「わたしを苦しめる者が動揺するわたしを見て喜ぶことのないように」と。しかしこの詩には神の答え、神の言葉は記されていない。にもかかわらず記者は信仰を表明し、賛美に導かれ、「主はわたしに報いてくださった」と告白する。パウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6-7)と述べている。人々と対するとき私たちは多く語りがちである。しかし聞くことはもっと大切である。聖霊の導きを求めつつ、聞く人になりたい。

2016/2/20(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 12:13-17 新聖歌 391
 ファリサイ派やヘロデ派の人々がイエスを陥れようとして数人をイエスのもとに送り「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」と質問させた。イエスは彼らの下心を見抜いて「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えられた。この答えはイエス様の驚くべき知恵をあらわしている。この世で生きるキリスト者の世に対する責任と神に対する明確な態度との葛藤と言う難問を主は見事に解決された。クリスチャンも世に対して責任を果たさなければならない。世で生きるために従うべきルールと、信仰者として、御国の民として従うべき神の言葉がある。常に祈り、御霊に導かれていきましょう。”,,1247″