≪デボーションの友≫2003/1/9-14

2023/1/9(月) 担当 高谷清師 ガラ5:1 聖歌(総)538  聖歌 520

 続いてルターは次のように語る。

「ここから、ほかの自由が結果として出てくる。この自由によって、われわれはキリストをとおして律法と罪と死と悪魔の力と陰府などから解放され、安全にされるのである。キリストが神の怒りからわれわれを解放してくださったのだから、神の怒りはわれわれを恐れさせることができないのと同様に、律法や罪などもわれわれを告発し、断罪することはできない。また、律法がわれわれを論難し、罪がわれわれを恐れさせても、われわれを絶望へと追いやることはできない。なぜなら、世に対する勝利である信仰〔第一ヨハネ五章四〕がすぐさま、「これらのものは私とはなんのかかわりもない。キリストがこれらのものから私を解放してくださったからである」と言う。こうして、この世界でこれほど力強く恐ろしいものはないと言われている死も、良心においては霊のこの自由によって打ち負かされてしまう。だから、キリスト教的自由の偉大さを努めて測り、考思すべきである。(ルター著作集第2集第12巻(ガラテヤ大講解・下日本ルーテル神学大学ルター研究所編P251-252 1983聖文舎)

と。実に、神は御子が十字架上で流された血潮によって我らを罪から解放し、御子を死からよみがえらせたその力によって死を滅ぼし、信じる者を死から解放してくださったのである。信仰によって歩もう。

2023/1/10(火)担当 ラウジー満世師 創世記25:27-34 賛美 聖歌(総)525 聖歌507

 長子の権利をめぐる印象的な場面である。本来長子に受け継がれるべき権利は双子の兄エサウにあった。エサウは野で狩りをして家に帰り、疲れていた時、目先の利益にとらわれて広い視野で状況を見極めることが出来なかった。対照的にヤコブは穏やかな人であり、落ち着いて周囲を観察し、将来に目を向けている人であった。疲れていたエサウは一時の空腹を満たすために、弱みに付け込んで長子の権利を奪おうとする弟の目論見にかかってしまった。ヤコブの抜け目なさに目が行ってしまうが、聖書はエサウが長子の権利を軽んじていることを二度も指摘している。

 ヤコブが父を継いで族長となっていくが、この二人の兄弟の関係を見るならば本来ありえないはずのことであり、狡猾と見えるヤコブが神に選ばれたことに疑問を抱きやすい。しかし神はエサウが神から与えられていた長子の権利を軽んじたことを見ておられた。神に与えられた恵みを軽んじる者からはその恵みが取り去られる。自分に与えられた神からの恵みをしっかり受け止めて、それを喜び、重んじ、責任をもって用いているだろうか。正しく用いるときに神は正しい働きを祝福してくださる。

2023/1/11(水) 担当 高谷清師 ガラ5:1 聖歌(総)532  聖歌 514

 ルターは言葉をつないで

この自由の偉大さを感じとり、その実を良心の戦いや苦悩の時に実際に用いるということは、語るよりもはるかにむずかしいことである。したがって、魂は訓練を受けねばならず、こうして、律法の告発や罪への恐れや死の恐怖や神の怒りを感じたときには、この悲しい光景を眼前から取り除いて、その代わりに、キリストの自由や罪の赦しや義やいのちや神の永遠の憐れみを置くようにすべきである。敵対するこれらのものを感じる力が強いとしても、それはそれほど長くはつづくものでないことに確信をもっているがよい。預言者が、「怒りの瞬間に私の顔をあなたから隠したが、永遠のあわれみをもってあなたをあわれむ」〔イザヤ五四章八〕と言っているとおりであるからである。(中略)これが確固たる信仰によって堅く把握されうるならば、この世や律法や罪や死や悪魔などのいかなる狂暴や、それによってもたらされるいかなる恐怖も、この自由によって呑みこめないほど大きいということはない。たしかにキリストの自由はただひとたび、律法、罪、死、神の怒りといったひとやまの悪を呑みこみ、これを除いてくださる。そしてこれらのものの代わりに、義と平和といのちなどを打ちたててくださる。これを理解し、信じるものは幸いである。(ルター著作集第2集第12巻(ガラテヤ大講解・下日本ルーテル神学大学ルター研究所編P252-253 1983聖文舎)

と語る。マルタが「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った時イエスは「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」と問うフィリピの町の看守に対してパウロ達は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」と答えている。「信じる」とは「知る」「知って語る」以上のことである。

2023/1/12(木)担当 ラウジー満世師 創世記26:1-14 賛美 聖歌(総)614聖歌578

 26章にはイサクの生涯についての記録が置かれている。イサクはアブラハムを継ぐ者として同じ約束を神から受けている。土地と子孫と祝福に関するものである。それはアブラハムの従順の故であった。イサクにも神からの条件、すなわちエジプトに下らずに神が命じる土地に留まる命令が課された。神に対する服従がイサクにも求められたのである。神は「従うこと」を求められた。興味深いことにイサクもまた父アブラハムと同じ間違いをし、土地の王を恐れて妻を妹と語り、危険にさらした。この時も神の憐れみによりアビメレク王と妻リベカは守られた。

 神の恵みと約束は神の選びのアブラハムとその子孫であるイサクに受け継がれた。神は彼らが神に従う時に約束を守ってくださる。彼らが人間的な失敗を犯すこともあるが、神は忍耐強く彼らを守り、成長の機会を与えて下さる。私たちも神の言葉に従うことを通して、神の訓練を受け、主の働きに今年も用いられるよう願おう。

2023/1/13(金) 担当 高谷清師 詩 73:1 賛美 聖歌(総)653 聖歌 608

 詩人は「神はイスラエルに対して/心の清い人に対して、恵み深い。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは

「著者はすぐ始めに、自分があらゆる疑いに抗してしっかりふみしめる大地の輪郭を描き出す。神はついにイスラエルにとって恵み深い。それはこの民が神の民で「心直く」、すなわち下心を持たず、他を顧みず、神に献身するからである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P216』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)

と記している。神について教えられ、福音を聞き、神の恵みのすばらしさに心打たれて信仰を告白し、喜びにあふれて信仰生活を踏み出した私たちも、やがて多くの試練に直面します。「あばたもえくぼ」の恋愛時代を経て結婚したカップルも長い結婚生活においては互いの欠点、醜さが目に付いてきます。それらを乗り越えて幸いな結婚生活を得させるものはゆるぎない愛と信頼です。同じように、試練に勝利して祝福に満ちた揺るぎ無い信仰生活を全うさせるのは神に対する全き愛と信頼である。

2023/1/14(土) 担当 高谷清師 マタ17:14-20 賛美 聖歌(総)662 聖歌 617

 てんかんでひどく苦しんでいる息子を持つ父親が癒しを求めて弟子たちの所に息子を連れて来た。しかし弟子たちは癒すことができなかった。そこにイエスがやって来られたので父親はイエスに「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」と言った。イエスが「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」と言い、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。これを見た弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と問うた。それに対してイエスは「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」と答えておられる。ヤコブは「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(ヤコブ 5:15)と述べている。主に聞かれる祈り、それは信仰に基づく祈りである。