2020/4/13-18

 2020/4/13(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:12 賛美 新聖歌 260

 イエスは「あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。」と祈られる。山田京二師は「私たちはこのイエスの大祭司の祈りの中に、イエスの驚くべき謙遜さを見い出す。イエスはこの祈りの中で、自分のもっているものは、すべて父なる神から出たものであることを、再々強調するのである。自分の一切はただ父なる神から与えられ、父なる神に属するものであることを強調する。このイエスの謙遜はただ自分を空っぽにしてみせる(時々、私たちは謙遜というものをそのように誤解する。弱さを知り、弱さを見せることが謙遜だと誤解している〉のではなく、自分のもっているものは、すべて父なる神から与えられたものであると告白し、その父なる神に徹頭徹尾従順に歩んで来た、これからも歩む、十字架の死に至る迄歩んでいく、と告白する。すなわち、その謙遜は従順というものに裏うちされているのである。私たちは自分の意志や努力で、自分を空っぽにしたり、謙遜になったりすることはできない。ただなにものかに従順になることによって謙遜になることはできるし、従順になることによってしか、謙遜にはなれない。イエスは今、自分独自のものなど、一つもない、と父なる神に告白し、そのことを「彼ら」にも公言し、又彼らがそのことを知ったことをもって、彼らの信仰とした(78節〉」(説教者のための聖書講解No3318日本基督教団出版局1980)と述べておられる。パウロは「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。」(?コリ11:23)と述べている。私たちが今神の子とされているのは、唯神の恵みによることを告白し、常に栄光を神に帰しつつ歩もう。

 

2020/4/14(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書8:9-10  賛美 新聖歌261

 神が定められた裁きの日はどうなるのか。9節では明るい昼間の時間に大地が闇となると伝えられる。突然暗闇になることはヨエル書でも伝えられていた。アモスは裁きの詳細な状況を伝えず、神がこのことをなさるという宣言を伝えることに重点を置いている。その時には町中のあらゆる喜びが嘆きに代わり、服装も喪に服する姿となる。子どもたちが亡くなり、後の世代が続いていくという希望も断たれる。人々がかつて経験をしたことがないような混乱が起こる。これが神の裁きを受けた人々の現実となる。

 神はアモスやその他の預言者を通じて、罪を犯し続ける人々に何度も裁きを受けると警告された。警告されている間はまだ悔い改めのチャンスがある。突然すべての希望が失われる前に、愛する人々に福音を伝えよう。

 

2020/4/15(水) 担当 高谷清師 ヨハ17:13 賛美 新聖歌 317

 イエスは「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」と祈られる。イエスは先に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(ヨハ 15:9-10)」と語られた。先日『「愛とは「交わり」であり「関係」である」という、山田京二師の言葉を引用させていただいた。キリスト者の喜びとは、キリストの愛に留まること、キリストとの愛の関係において与えられるのである。現実の人生の歩みにおいてキリスト者もキリスト者でない人々と同じように様々な災厄に遭遇し、悲嘆の淵に落とされることがある。そのような時にも、根底において支える、キリストとの愛の関係において与えられる喜びがある。パウロは「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:39)と述べている。(ロマ 8:35-39参照)いかなる時にもキリストの内に生きよう。

 

2020/4/16(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書8:11-12  賛美 新聖歌38

 9-10節に述べられた物理的な裁きの日の異変だけではなく、飢えと渇きも送られる。人が生きるために必要なものはパンと水だけではなく、霊的な食べ物である神の言葉も含まれる。これは聖書の中で幾度か語られている。人が霊的に生きるために不可欠な主の言葉が取り去られる。人々が物理的枯渇だけではなく、霊的渇きにも苦しむ。民は神に選ばれた民として、いつでも神の言葉を聞くことが出来ると考えていただろうか。しかし神の言葉を聞くことが出来るのは、神が与えてくださった大きな恵みであった。そして神との関係に生きる人々は恵みの源である神に従い、罪と背きから離れて歩むことが求められている。

 霊的渇きで苦しむことがないよう、今この時に神の警告の語り掛けを聞きたい。そして神の警告と悔い改めへの招きを聞いたならばそれを他人事だと受け止めることがないように注視しよう。突然やってくる「主の日」に備えていつも神とともに正しく、従順に歩もう。

 

2020/4/17(金) 担当 高谷清師 詩 51:13  賛美 聖歌 369

 ダビデは「御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。」と祈る。「聖なる霊」についてフランシスコ会訳聖書は「ここでは、旧約聖書でよく見られる特別に授かる一時的恵み、あるいは祭司や王や預言者が公式に受ける霊というよりは、むしろ、永続する神との個人的親交状態をさす」と述べている。また「自由の霊」について新改訳聖書は「喜んで仕える霊」と訳し、岩波訳は「高貴な霊」と訳して「「進んで働く」(35:5)とも訳される」と述べている。この箇所についてA. ヴァイザーは「「進んで行う」霊を、人間は自分から発することができない。魂が神の力に養われなければ、人間は不安の中に育てられた奴隷の屈従以上のことはできない。神を喜ぶことが行動の推進力となってはじめて、道徳的な服従が信仰の従順になる。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P81)と述べている。パウロは「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ロマ 8:14-15)と述べている。常に御霊の導きに従順に歩もう。

 

2020/4/18(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 16:9-11 賛美 新聖歌 127

 復活された主はまずマグダラのマリアに御自身を現されました。このマリアは以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人です。復活された主に会ったマリアはすぐに、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせました。復活された主に会ったマリアはそのことを自分の心の中にだけ留めず、他の弟子たちに伝えました。弟子たちはこのマリアの知らせを信じませんでしたが、マリアは伝え続けました。私たちも、たとえ人々が信じなくても、すべての人々にキリストの復活を証しし続けましょう。