2020/8/31-9/5

 2020/8/31(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 3-24 賛美 新聖歌 42

 イエスの十字架刑を執行した兵士たちは見張りのためにその場にとどまっていた。彼らはイエスを十字架につける前にイエスから剥ぎとった衣服の分配を始めた。この箇所についてカルヴァンは「主イエス・キリストが着ているものを剥ぎとられたのは、かれの義をわたしたちにまとわせるためであり、かれの体が裸でひとびとの汚辱にさらされたのは、わたしたちが栄光をまとって、神のさばきの座の前にあらわれるようにするためである。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書下P596 新教出版社1965)と記している。創世記は「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(創 3:21)と述べている。罪無きイエスは、裸にされ、十字架につけられ、血を流し、その血をもって罪ある我らを覆い、御前に我らを義とし、栄光に預からせてくださるのである。

 

2020/9/1(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書1:5  賛美 新聖歌165

 2節から4節では神が住まいから降り、地に来られると語られた。5節はその理由を述べている。神が地上に来られたのは忠実な民と霊的な交わりを楽しむためであっただろうか。そうではない。神が来られたのは人々の罪の故であった。イスラエルには神がご覧になって罪が満ちていた。北王国の首都サマリアと南王国の首都エルサレムの名があげられ、両王国で罪が横行していることが指摘される。神が来られたのは神ご自身の民と親しく交わり、祝福するためではなく、神の民とされていながら罪を犯し続ける人々に向き合い、正すためだと述べられる。

 主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて罪赦された者は、神との霊的交わりを求め、神の臨在を期待する。それは大きな恵みである。しかし、ミカ書を読むときに、神との親しい交わりを求める私たちがまず神との関係において忠実であり、罪から離れて神の前に正しく歩んでいるかを確認する必要があることを教えられる。これもまた神の憐みであり、恵みである。

 

2020/9/2(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 25-27 賛美 聖歌 396

 ヨハネは任務遂行のために十字架の許にいた者たちとは別の、十字架の許に佇む一群の人々―その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリア、イエスの愛する弟子―について記している。私たちはこの記事を何気なく読み過ごしがちであるが、それは大変なことであった。そこにはユダヤ人指導者たちの陰険で憎悪に満ちた目が注がれていたからである。そのような中で彼らを十字架の許に留まらせたのは信仰と愛であった。

 洋の東西を問わず、信仰者の歴史は試練と迫害の歴史であった。教会は試練と迫害に遭遇する度に脱落者と裏切り者を出してきた。そのような中にあっても、殉教者を出しながらも、信仰と愛に満たされた人々はイエスの十字架の許に留まり続け、信仰を全うしてきた。主が再び来られる日まで試練と迫害が無くなる日はないであろう。私たちは聖霊に支えられつつ信仰と愛に満たされ、十字架の許に留まり続けよう。

 

2020/9/3(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書1:5  賛美 新聖歌200

 地を裁くために来られた神が何をなさるのかが語られる。神は罪を犯し続けるサマリアを荒廃させると言われる。人々が長年かけて築いてきた北王国の首都の建物は崩壊してがれきの山となり、崩れ落ちる。神の力の大きさを教えられる。なぜご自分の民にこのような厳しい裁きをなさるのだろうか。それは7節に語られるように、サマリアの人々が主のみを礼拝せず、土着の宗教を織り交ぜた信仰生活を送っていたからである。サマリアの人々は異教礼拝が入り込んでいることにも気付かなかったかもしれない。しかし偶像礼拝は巧妙に忍び込み、人々の心を神から引き離し、また異教の宗教儀礼に伴う姦淫の罪をも引き起こす。

 これはミカの時代のサマリアに限ったことだろうか。私たちもみ言葉に学び続け、霊的に目覚め続けていなければこのように気付かぬうちに忍び込む偶像礼拝にたやすく陥ってしまう。だからこそ毎日の祈りとみ言葉の生活を軽んじることなく、日々神との正しい生きた交わりを求めよう。

 

2020/9/4(金) 担当 高谷清師 詩 56:1-14  賛美 新聖歌 216

 この詩篇について月本昭男師は「神ヤハウェへの個人的な信頼を詠う詩篇はもとより、神に苦難を訴えて救いを懇願する祈りの詩篇においてもまた、詠い手はしばしば神への信頼を表明する。そこに嘆きの詩篇を編み、これを詠い継いだ人々の信仰が映し出される。神への信頼表明は、その場合、神の厚意を引き出すための方便ではない。それによって自らの内に増幅する悲嘆や不安を払い除けようとしたのでもない。苦難のなかで神を信頼するということは、絶望や悲嘆や不安に陥れる諸力を正面から直視する勇気をもつことにほかならなかった。神に深い信頼を寄せるがゆえに、信仰者はそうした諸力を見据えて、これを神に訴え、そこからの救いを嘆願したのである。それゆえ、暴虐と欺瞞を神に嘆き訴え、救いを懇願する詩篇五五篇の詠い手は、最後に、それらすべてを「私はあなたに信頼します」という簡潔な告白文に収斂させた。これに続く本詩五六篇は、この最後の点、すなわち苦難のなかで表明される神への信頼を主題化しているようにみえる。」『詩編の思想と信仰?』P8384新教出版社2011)と述べておられる。フランシスコ会訳聖書は本詩編に「情ぶかい神への信頼」と言う表題を付している。私たちの信仰の歩みには様々な苦難と困難が立ちはだかり、悲嘆や不安に陥れる。そのような時、信仰に立って事態を冷静に直視するなら「肉にすぎない者が/わたしに何をなしえましょう。」と言う告白に至るであろう。

 

2020/9/5(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 14:67-72  賛美 新聖歌 32

 イエスが弟子たちのつまずきについて語られた時ぺトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マコ 14:29)と言いました。かさねてイエスが「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(マコ 14:30)と言われると、ペトロは力を込めて「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(マコ 14:31)と言い張りました。しかしイエスが裁判の席に着かれた時、女中がペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言うとぺトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言いました。するとすぐ鶏が鳴きました。このようのことを三度繰り返した時、再び鳴きました。その時ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだしました。しかし復活されたイエスはぺトロを咎めず、福音宣教の大使命を与え、聖霊の注ぎを与え、強くし、その使命を全うさせてくださいました。肉による決心は弱く、もろいものです。しかし、私たちが悔い改め、御前に自らを低くするとき、神はわたしたちを強め、尊い働きのために用いてくださるのです。