≪デボーションの友≫2022/10/3-8

2022/10/3(月) 担当 高谷清師 ガラ 3:22-25 聖歌(総)636  聖歌598

 信仰が現れるより以前の状態についてパウロは「わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。」と述べている。この「養育係」という言葉について近藤勝彦師は「新約聖書の時代、家の奴隷の仕事として、その家の子供たちを監視する役目がありました。険しい顔つきで鞭をもって子供たちを監視し、恐怖を与えました。」(十字架のキリスト以外に福音は無いP68-69)と述べておられる。

 続いてパウロは「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」と述べる。信仰が現れた―イエス・キリストが到来されたことによって私たちは律法―養育係のもとから解放され、自由な者とされたのである。

2022/10/4(火) 担当 ラウジー満世師 創世記17:23-27 賛美 聖歌(総)508 聖歌490

 17章の最後において報告されるのはアブラハムが神の命令(17:9-14)に従って契約を守ることを実行して割礼を行ったことである。既にアブラハムが信仰の歩みにおいて常に完ぺきではなかったことを見たが、ここには私たちが見習うべき信仰の模範が示されている。アブラハムは神の命令にすぐその日に従った。他のことを優先して先延ばしにせず、即座に神の命令を実行したのである。また、ここにはイシュマエルも含めて家にいる男子全員に割礼を施したことが重ねて報告されている。神の命令は8割程度従えばよいというものではない。まず命令を注意深く聞き、命じられたとおりに妥協せずに、中途半端に陥らずにしっかり行うのである。

 アブラハムが神に従ったように私たちも神の命令には先延ばしせずに即座に、そして忠実に従おう。そのためには自分の事情や思いを優先するのではなく、それらを横において従うこと、また語ってくださる神の言葉にしっかりと意識を向けて聞くことが大切である。

2022/10/5(水) 担当 高谷清師 ガラ 3:26-29  聖歌(総)635  聖歌596

 続いてパウロは「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」と述べる。この箇所について近藤勝彦師は

「キリスト到来後の人間のあり方は「キリスト・イエスにある」あり方です。それが信仰と言われ、それによって皆「神の子(たち)なのです」と言われます。「神の子」と言う言葉の中に、閉じ込められていない自由が表現されています。なぜなら神との喜ばしい関係が表現されているからです。キリスト・イエスにあることで、神に対して父と子の関係になったのです。「キリスト・イエスに結ぼれて」(二六節)とあるのは、「キリスト・イエスにあって」という言葉です。「キリスト・イエスにある」ことで「神の子たち」と言われます。「神の子たち」とは、イエス・キリストが「御子」と言われる、その「子」という言葉の複数形ですから、キリストにあってキリストのように子とされました。キリストの兄弟とされ、神の子たちにされたという意味合いが含まれています。「神の子たち」と言うのは、何ものによっても引き裂かれない愛の親密な関係が、キリスト・イエスにある私たちと神との間に打ち建てられていることを意味します。」(十字架のキリスト以外に福音は無いP249-250)

と述べておられる。「キリスト・イエスにある」者の幸いがここにある。

2022/10/6(木)担当 ラウジー満世師 創世記18:1-15 賛美 聖歌総合版529 聖歌511

 アブラハムは暑い昼下がりに突然現れた旅人をもてなす。見知らぬ相手を、心を尽くしてもてなすアブラハムに対して、この客は妻の名を呼び、一年以内に男の子が生まれていることを告げる。神の約束の確認であった。明らかにこの客は主の使いである。しかしサラは自分と夫の現状を常識的に理解していたので不信仰にもこの約束をあり得ないことと考えて笑った。主の使いは不信仰の笑いを放置しなかった。サラの不信仰を指摘しつつ、人がどう考えようと神には不可能なことはないと告げ、同時にサラが不信仰にも笑ったことを隠そうとした言い訳についてもそれを神の目から隠したり、なかったことに戻したりすることはできないと伝えた。

 アブラハムもサラも神の約束を待ち望む長い時間の中で信仰に固く立てる時もあれば、人間の常識に基づいてあり得ないと考えて全能の神の言葉を信じきれないこともある。それでも主は言葉をかけて時には励まし、時には不信仰と向き合わせ、確実に神の御心を行われる。長い信仰生活において神に信頼しきることが出来るときも困難な時もある。あらゆるときに私たちを知り、励ましてくださる神を見上げ続けよう。

2022/10/7(金) 担当 高谷清師 詩 71:14-17 賛美 聖歌(総)481 聖歌468

 若き日より神ヤハウェの「不思議な業」を学び、弦を奏でつつ同胞にそれを歌って聞かせる詠唱者であったであろうと思われる詩人は「わたしは常に待ち望み/繰り返し、あなたを賛美します。わたしの口は恵みの御業を/御救いを絶えることなく語り/なお、決して語り尽くすことはできません。しかし主よ、わたしの主よ/わたしは力を奮い起こして進みいで/ひたすら恵みの御業を唱えましょう。神よ、わたしの若いときから/あなた御自身が常に教えてくださるので/今に至るまでわたしは/驚くべき御業を語り伝えて来ました。」と詠う。預言者として立てられたエレミヤはその預言のゆえに迫害を受け、沈黙しょうとした時「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」(エレ 20:9)と述べている。注がれる恵みに従い主を褒め称え、証ししていこう。

2022/10/8(土) 担当 高谷清師 使7:54-60 賛美 聖歌(総)534 聖歌516  主の祈りは「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」との信仰告白をもって閉じる。最初の殉教者となったステファノは敵対者が激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりし襲いかかろうとしている時、聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。敵対者が石を投げつける中に在って主を礼拝し、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言い、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んで眠りについた。イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハ 16:33)と語っておられる。サタンの支配する地上においては如何なる迫害の嵐が吹き荒れようとも、主はすでに勝利しておられ、その勝利は信じる者に与えられている。確信をもって主を賛美しつつ歩もう。