≪デボーションの友≫2023/10/9-14

2023/10/9(月) 担当 高谷清師 ルカ5:33-39  賛美 聖歌(総)630 聖歌 592

 徴税人であったレビはイエスの「わたしに従いなさい」と言う言葉に応えて何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。イエスの言葉は彼を我欲から解放し、新しい生へと導いたのである。その喜びの故に、彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いた。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちもいた。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」と言った。

 断食は、当時、イスラエルの民にとって一般的な習慣であり、洗礼者ヨハネと彼の弟子たちもまた、断食を習慣としていた。ファリサイ派の人も週に二回断食していた。このような状況から、レビが自分の家でイエスのために催した盛大な宴会はファリサイ派の人々やその派の律法学者たちにとっては躓きとなった。これに対してイエスは「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」と答えておられる。花婿と花嫁の関係は旧約聖書では神とイスラエルの契約の表象として用いられた。イエスか神ご自身であり、イエスの招きを受け入れ、イエスを信じる者は神の民とされているのである。

2023/10/10(火)担当 ラウジー満世師 創世記48:12-14 賛美 聖歌総合版538 聖歌520

 ヤコブがセフの二人の子供たちを祝福する時、初めて按手の祈りが行われている。現代、按手の祈りはとても格式高い宗教的儀式であると受け止められ、厳粛な儀式として行われる。確かにそこには神への畏れがあり、聖なる場となる。しかしそれは冷血な形式主義に陥ってはならない。ヤコブは族長として神と共に歩んできた長い生涯を担いつつ、祝福を受ける者への愛をもって触れ、手を置いて祈る。彼らはヤコブの想像を超えて、遠くの地で神が与えて下さった恵みであり、深い愛情を注ぐ対象であった。そのような子らに深い愛とそれ以上に神への感謝とをもって、ヤコブはアブラハムから引き継いできた神の祝福を祈った。

 手を置いて祝福を祈ることは神の前で深い信仰を持って行う厳粛な行為である。確かな信仰に立つ祝福の儀式は深い愛が現れる、心のこもった行いでもある。「祝福の祈り」を決して軽々しく行うのではなく、常に神への深い感謝と信頼をもって、祝福を受ける者を愛して祈りたい。

2023/10/4(水) 担当 高谷清師 ルカ5:33-39  賛美 聖歌(総)276 聖歌 295

 イエスは「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。」と語られる。イエスが公生涯に入られて最初の言葉はイザヤ書に記されている「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」と言う箇所をお読みになり「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言うことであった。イエスは神ご自身であり、イエスによって神の国は到来したのである。神の国はいつ来るのかと尋ねるファリサイ派の人々に対してイエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20-21)と答えておられる。キリストを信じ、キリストに従う者の内にキリストの支配は成就し、神の国は実現し、感謝と喜びがあふれる。

2023/10/12(木)担当 ラウジー満世師 創世記48:15-16 賛美 聖歌総合版525 聖歌507

 ヤコブの祝福の祈りの言葉が綴られている。冒頭では神に3度呼びかけている。ヤコブがその名によって祝福する神とは、「アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神」であり、「私の生涯を今日まで導かれた牧者」であり、また「私をあらゆる苦しみから贖われたみ使い」であった。ヤコブが子孫への祝福を願う神はヤコブ自身の生涯を導き、常に多くの苦しみから贖い出してくださった真実な神である。そしてこの神はヤコブ自身だけではなく、その父祖アブラハム、イサクにも祝福を注ぎ続けて下さった神であった。この神からの祝福と守りの中に生かされてきたヤコブ自身が、生涯を通して確かな恵みを与えて下さる神の名によって祝福を次世代へと祈り、継承していく。

 信仰の継承は今も大きな課題であり、様々なところでどのように実行していくかが語られる。大切なことは次の世代へと引き継ごうとする人がその生涯の経験を通して祝福の源である神を確信し、次世代へと指し示すことである。

2023/10/6(金) 担当 高谷清師 ルカ5:33-39  賛美 聖歌(総)616 聖歌 580

 イエスによってもたらされる喜びについて平野克己師は

「イエスがもたらす喜びは、悲しみを排除して成り立つ空騒ぎではない。喜びの知らせが説教されるとき、悔い改めの悲しみが起こる。しかも、その悲しみの中には、イエスがもたらしてくださる喜びが透き通ってくる。イエスのなさりようは私たちの常識をいつでも覆す。イエスは罪人を悔い改めさせるために、洗礼者ヨハネのように斧や焼き尽くす火をちらつかせるのではなく、みずから進んで宴席に着き、喜びを共にするという手段をもって悔い改めへと招く道を選ばれたのである」(説教黙想アレテイア ルカによる福音1-11章P168日本キリスト教団出版局2014)

と述べておられる。更に師は洗礼者ヨハネと主イエスの違いについて「洗礼者ヨハネは、荒れ野に住んだ。しかしイエスは、人々のただ中に住んだ。」(同書P167)と述べておられる。私たちも未信者と共にあって主の証をしていくべきである。しかし肉を持つ私たちは弱い。神の御子イエス出さえも常に人里離れて神との交わりの時を持たれた。私たちも密室の祈りを欠かしてはならない。それを怠るならミイラ取りがミイラになる諺のとおり、信仰の破船を招く。

2023/10/7(土) 担当 高谷清師 ルカ5:33-39  賛美 聖歌(総)476 聖歌 463

 主は「花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」と語られる。この箇所について平野克己師はマーシャルの言葉を引用して

「マーシャルは、ここで言われている断食は、イエス・キリストの十字架から、復活のイエス・キリストに出会い教会が生まれるまでの期間だとしている(P226)。そして、次の言葉を参考筒所として挙げる。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」(ヨハ 16:22)。(説教黙想アレテイア ルカによる福音書1-11章P249-250日本キリスト教団出版局2014)

と述べておられる。  復活されたイエスは、悲しみと恐怖に閉ざされ、息をひそめている弟子たちに現れ「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。(ルカ24:39-43)」復活された主は弟子たちと食を共にされた。それによって弟子たちの心には悲しみと恐怖に代えて喜びが満ち溢れた。ペトロは「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(Ⅰペト1:6-8)と記している。キリスト者の心にはいかに悲しい時にも、いかにつらい時にも聖霊によって注がれる神からの喜びがある。