2019/4/15-20

2019/4/15(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:44-50 賛美 新聖歌 137

 この箇所は本福音書においては肉にあるイエスが群集に語りかけられる最後の場面である。ヨハネは「イエスは叫んで、こう言われた」と記している。イエスは三年六か月に亘って人々に語ってこられた中で、どうしても伝えておきたい事柄を、全存在をもって語られておられるのである。イエスは「「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」と語られる。ヨハネもまた「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ 1: 18)と述べている。またイエスは「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うフィリポに対して「「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」(ヨハ 14:8-11)と語っておられる。父なる神と御子は一つである―人間の認識能力を超えた真理であり、信仰によってのみ、受け入れられるのである。
 
2019/4/16(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書2:16-25  賛美 新聖歌337
 裁きを語る最中に驚くべき全く逆のメッセージである救いが語られる。主を離れて偶像を祝福の源として慕い求め、姦淫にふけるイスラエルを忘れ去ったと宣言されながらも、同時に民を見捨てることのない神の愛が語られる。出口の見えない苦しみの中にある民に対して希望の門を神ご自身が与えられる。堕落し、神に背き続けている民に対して救いを与え、恵みを与えるのは神ご自身である。神ご自身の主導により民に希望が与えられ、とこしえの契約が結ばれ、正義と公平が与えられ、慈しみが注がれる。ただ一方的な神の救いの業がなされるときに民はようやく真の神を正しく認識し、「わが夫」と再び呼ぶことができる。
 旧約の時代にも人びとは神の憐みと恵みによって救いを見出し、神の愛の中でともに生きた。ましてや今の時代、私たちにはすでに神の御子、イエス・キリストが救い主として与えられ、イスラエル同様に神に背き続けているときに神から差し出された救いを受け取らせていただいた。もう一度深い神の憐みを思い起こしたい。
 

2019/4/17(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12: 12:44-50 賛美 聖歌 610

 続いてイエスは「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」と語られる。ヨハネは本福音書の始めの部分において「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ 1:4-5)と述べている。更に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハ 1:9-12)と述べている。御子は罪の故に光を失い、暗黒のなかを歩む者を救うために神に遣わされて世に来てくださったお方であって、人を裁き罪に定めるために来られたお方ではない。更に、人の罪を負い、十字架に架かり、血を流し、救いを成就してくださったのである。終生、イエスの内に歩もう。
 
2019/4/18(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書3:1-5  賛美 新聖歌396
 再びホセアに「夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」(3:1)という主の言葉が語られる。1章を思い起こせばやはりこれはホセアの妻を再び愛せよという命令であろう。二人の間に何が起こっていたのか、具体的な事情は語られないが、彼女は異教の祭で振舞われる干しぶどうの菓子を愛していた、つまり偶像礼拝にふけっていた。彼女は、夫であるホセアが買い戻し、連れ戻しても感謝もなく、逆に迷惑だと主張するだけだろう。しかし神はホセアに対して、背く者を追いかけ、買い戻し、連れ戻して、しばらく孤立した時を過ごさせよと命じられる。そしてこの妻を愛し続けて彼女―すなわちイスラエル―が再び真の主を求める日を待てと言われる。
 神の愛を実生活で体現しながら主のメッセージを語るように召されたホセアの生涯は決して簡単なものや喜びばかりに満ちたものではなかった。これほど愛を注ぎながら背かれ、裏切られる痛みを伴う生涯であった。これは神ご自身が造られたすべての民に対してなし続けてくださっている御業である。すべての人がこの忍耐強い愛によって絶えず神から追い求められている、私たちもそのひとりであることを知ろう。
 
2019/4/19(金) 担当 高谷清師  詩 44:2-4 賛美 新聖歌 172
 この詩について月本昭男師は「本詩は、「われらの神」に嘆き訴え、救いを求める民族の哀歌であり、「われら」の祈りである」『詩編の思想と信仰?』新教出版社2006、P244)と述べておられる。神の民イスラエルとして、ダビデ、ソロモンの時代に繁栄を誇ったイスラエルも、この時代、状況は一変し、敵は思うままに蹂躙し、周囲の国々の嘲笑と侮蔑の的となっている。神が敵の手に「引き渡された」からである。そのような状況下に在っての祈りである。祈り手はイスラエルの歴史伝承を想起し、イスラエル国が形成されたのは、自分たちの剣や腕の力によったのではなく、神の御業であったことを告白する。この歴史の事実は、敵の蹂躙と嘲笑と侮蔑の中に在って、それに抗する術を持たないイスラエルの希望である。私たちが試練の中におかれ、辱めと嘲りの中におかれる時、かつて与えられた恵みは力となり、希望となる。
 

2019/4/20(土)担当 高谷由紀子師 ?コリ5:17 賛美 新聖歌 358

 陽春四月を迎え、草木は一斉に芽吹き、さくらは生の喜びを爆発させるごとく咲き誇っています。街では新一年生がピカピカのランドセルを背負い、全身で喜びを表し、真新しい装いの新社会人が希望を指示しています。聖書は「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(?コリ5:17)と述べています。イエス・キリストは贖いの御業によって新一年生や新社会人だけでなく、日々の生活に疲れ果てた人々をも新しく造り変え、喜びと命に満たしてくださるのです。