2019/4/8-13

2019/4/8(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:42-43 賛美 聖歌 265

 ヨハネは「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」と記している。会堂から追放されることは社会との交わりを断たれることであり、集団から追放され、孤立することを意味した。集団からの追放と孤立がしばしば人を死に追いやることは、頻繁に報じられる、痛ましいいじめによる自殺のニュースが示している。このような理由によってイエスを信じながらも、その信仰を告白しなかった人々が多数いたのである。私たちの住む日本社会は異教社会である。そこにおいてキリストに対する信仰を告白することは大変に困難である。特に「嫁」と呼ばれる立場にある女性にとっては至難である。教会とクリスチャン社会は、そのような立場にある人々に対する祈りとサポートが求められるのである。
 
2019/4/9(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書2:4-7前半  賛美 新聖歌176
 神が法廷にイスラエルを告発しておられる。イスラエルの中の正しい者に対して彼らの母、すなわち姦淫の罪を犯すイスラエルを告発せよと言われる。ホセア書における結婚の比喩において神とイスラエルの間で犯された罪を語るとき、姦淫という行為が使われている。ここからわかることは、真実であるべき夫―神―に対して、妻であるイスラエルは裏切りの行為として姦淫の罪を犯した。最も恥ずべき罪を犯している妻を、夫は妻として認めず、死を与え、憐れまれないと言われる。それでもなお、神はこの妻から淫行の罪を取り除かせなさいと言われる。この期に及んでなお、神はイスラエルが罪から離れて神に立ち返ることを願っておられる。
 この告発は神がイスラエルを滅ぼすためではなく、彼らの罪に気づかせ、悔い改めさせるためのものであった。私たちにとっても、神が罪を指摘され、気づかせてくださるときに、自分を顧み、罪を悔い改め、神のもとに立ち返ろう。
 

2019/4/10(水) 担当 高谷清師 ヨハ12:42-43 賛美 聖歌 181

 この箇所においてなお、一つの事柄に目を向けなければならない。ヨハネは「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」と記している。パウロは「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ロマ 10:9-10)と述べている。議員の中で信じた人々は、自己保身のためにイエスに対する信仰を言い表さなかった、即ち、口で「イエスは主である」と言い表さなかったのである。彼らにとって終局的にはイエスは主ではなく自分が主である。常に「イエスは主である」と告白する信仰に立とう。
 
2019/4/11(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書2:7後半-15  賛美 新聖歌165
 ホセア書で語られるイスラエルの姦淫の罪とは具体的に何だったのか。それはバアル礼拝であった。バアルとは、カナンの地の土着の信仰において信じられていた神であった。農耕において豊かな実りをもたらすと信じられていたため、土地に定住して農耕の実りにおいて経済を潤わせる生活をする人々には大切だと考えられていた。イスラエルも穀物や新しい酒やオリーブ油を与えたのはバアルだと考えるようになり、熱心にバアル宗教の儀式を行っていた。それは姦淫を含むものであった。過去の歴史を通して奴隷の地から解放し、荒れ野で支え導き、新たな土地で祝福してくださった神を彼らは簡単に忘れて豊穣を与えたのはバアル神だと信じ始めた。
 どうして祝福の源が主なる神からバアルに容易にすり替えられてしまうのか?と首をかしげたくなるが、今でも私たちは簡単に祝福の源を神からほかのもの―自分の努力や、師や先輩の厚意など―にすり替えてしまうのではないだろうか。祝福の源であり、私たちに命を与える真の神から目を離さず、神にのみ従い続けよう。
 
2019/4/12(金) 担当 高谷清師  詩 43:5 賛美 新聖歌 498
 この詩(4243編)の作者は三度「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。」と詠う。最初は追放の地で神を慕い求めて詠った。二度目は沈黙される神の前で、人々の絶え間ない嘲りの言葉に意気消沈しながら、信仰によって告白し、祈った。そして三度目は祈りの深まりの中で確信に導かれて神を喜び、感謝をもって詠っている。イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハ 16: 33)と教えておられる。またテモテへの手紙二は「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(?テモ 3: 12)と述べている。信仰と聖霊に満ちている人と言われたステファノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見ながら、喜びの内に殉教の死についた。信仰の故に逆境におかれるとしても、神との交わりのうちにある時、そこには喜びと感謝が満ちる。
 

2019/4/13(土)担当 高谷由紀子師 マタ4:4 賛美 聖歌 316

 人は皆一生額に汗して働いています。それは生きるために必要な衣食住を得る為です。自分は何のために生き、日夜苦労して働いているのだろうかと考えない人はいないでしょう。その時私は「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタ 4:4)と言う主の言葉を思い出すのです。人は神によって造られました。聖書は「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創 2:7)と述べています。人は日々神と交わり、神の口から出る一つ一つの言葉を頂き、それによって生きるのです。神との交わりを絶やすことの無いように、日々祈りましょう。