2021/1/25-30

 2021/1/25(月) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1:7 賛美 新聖歌

 「愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。」と述べて、キリスト者の信仰の基本を明示したヨハネは、今、この時にキリスト者の信仰の基本を確認する理由について、人を惑わす者が大勢世に出て来たからであるという。人を惑わす者たちは「救い主が全く人となりたまうたということを否定して、キリスト者のキリスト告白に異議を唱えたのである。」(Ⅱヨハ1:6)。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」(Ⅰヨハ4:2)と述べているように、イエス・キリストの受肉こそ父なる神のみこころであり、救済のわざのための決定的な要件であった。このことが真理であり、教会がその「初めから」信じてきた正統な信仰内容であった。ヨハネは救い主が全く人となりたまうたということを否定する者たちを「人を惑わす者、反キリストです」と言う。私たちは救いの基準を確認し、救いの基盤を堅持しょう。

 

2021/1/26(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:14-17  賛美 新聖歌21

 ミカは現実のイスラエルの歴史を見ながら神に願い求める。かつて経験したように、神がご自分の民イスラエルを牧し、平和と安全を与えて下さるようにと願う。かつてイスラエルが神の恵みを受けた日のことを思い起こして豊かな牧草地を与えられたように再び神の驚くべき御業を見せて下さいと願う。この願いは彼ら自身のための願いであったが、それだけではなかった。神を認めない諸国の民に対して神の御業を示し、傲慢なこれらの民が神の御前におののき、神を畏れ敬うことを求めていた。

 私たちは神と信仰者としての自分の関係をこの両者だけに関わる個人的な問題として受け止めがちである。しかしそれは単なる個人的な事柄にとどまらない。神が一人の信仰者のためになさる業は世界中で明らかであり、神の御業と御力の証しとなる。このことを心にとめ、神が私たちを通して今日もご自身を顕してくださるよう祈り求めよう。

 

2021/1/27(水) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1: 8 賛美 新聖歌 384

 ヨハネは「気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい」と語る。「気をつけて」と訳された箇所を口語訳聖書は「よく注意して」と訳している。この箇所について大沼田実師は「教会の中にしのび込んでくるグノーシス的思想に、充分注意せねばならないという。グノーシス主義はグノーシス(認識)による自己救済であるが、少なくとも神を認め、天的存在としてのキリストも認めるので、キリスト教信仰との違いは、かなり注意してみないとわからない。「注意しなさい」の原語には「あなたがた自身を」という言葉が付いている。このように、自分自身をよく見きわめていないと、異端の惑わしの中に誘われてしまうのである。また注意するのは、ただ異端への響戒心として消極的な意味で注意深くあれ、と語るだけではない。むしろ、積極的な意味で、ゆたかな救いの恵みの中に生きるようになるために勧められたのである。」(説教者のための聖書講解No3637日本基督教団出版局1981)と述べておられる。稲を育てようとすると多くの戦いを強いられる。雑草との戦い、害虫との戦い、害獣との戦い・・・。中でも稲田に生える雑草は多種多様である。その中でも稗は厄介である。一目しただけでは見分けにくく、しっかりと見分けなければならない。私たちを惑わそうとする反キリストの教えもまた見極めの難しいものが多く存在する。聖霊の助けを求め、聖霊に導かれて真理の道を歩もう。

 

2020/1/28(木)担当 ラウジー満世師 ミカ書7:18-20  賛美 新聖歌20

 ミカ書は最後に神に対する信仰告白と祈りで閉じられる。「あなたのような神が他にあろうか」という問いに対する答えは「いや、他にはない」である。真の神に並び立つほかの神は存在しないのである。真の神は人々の罪を赦される。慈しみ深いお方である。かつて嗣業の民をいつくしまれたように将来にも彼らを憐れみ、罪と咎をきよめて下さる。このようなお方であるがゆえにかつてのように慈しみを示して、将来にわたって自分たちを憐れんでくださいと願い求める祈りをささげることができる。

 私たちも神に心からの願いと祈りをささげることができる。それは神が憐れみ深く、これまで真実に導いてくださったことを通して、私たちがこの方こそ真の神であり、力ある方であると知っているからである。

 

2021/1/29(金) 担当 高谷清師 詩 59:7-9  賛美 新聖歌 148

 詩人は「悪を行う者」「流血の罪を犯す者」「力ある者」「悪を行う者、欺く者」―神を畏れぬ罪人―について「夕べになると彼らは戻って来て/犬のようにほえ、町を巡ります。御覧ください、彼らの口は剣を吐きます。その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう。しかし主よ、あなたは彼らを笑い、国々をすべて嘲笑っておられます」と語る。この箇所についてカルヴァンは「不義なる者らが、あらゆる悪事を企むとき、神はまるで、それを楽しみとするかのように、易々と彼らの謀略と努力とを、すべて追い散らされるであろう」と。神が彼らを見過ごしにされるかぎり、彼らの厚顔無恥ぶりは続き、いっそう思い上がって放埓に耽るからである。神が無為に過ごされるかに見えるまさにそのとき、そのみこころの欲するままにさばきを遂行される、ということを彼らは考察しない。さらにまた注目すべきは、ダビデがこのように語るとき、みずからの力を過大評価し、神は憩いのうちにあって、まどろんでおられる、と空想する者たちの、盲目的な狂気ぶりを厳しく非難しているということである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇P257新教出版社1971)と述べている。パウロも、人類の罪を指摘する時「彼らの目には神への畏れがない。」(ロマ 3: 18)と述べている。すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んで忍耐しておられる神の忍耐をあざ笑う世に対して、迫りくる神の裁きと救いを伝えていくことの重大さを覚える。

 

2021/1/23(土) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1:8 賛美 新聖歌 281

 ヨハネは「わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。」と勧める。の箇所について大沼田実師は「信仰者が神のために働く奉仕は喜びであるし、それを「失う」ことは残念なことである。とくに、グノーシス主義者によって、誤まれる信仰理解に陥ることで、信仰の観念化がすすみ、教会の中に愛のわざが衰微してしまう危険を前にして、それを「失うことのないように」勧められた。また救い主の真の人間性を見捨てるグノーシスの誘いによって、イエス・キリストの中に啓示された神の愛のゆたかさを見失い、その愛に励まされることがなくなれば、キリスト者の生活は挫折することになろう(ドッド〉。信仰者は終末において「受ける」べき豊かな報いを望みつつ、正しい信仰に生きよ、と勧告されている。」(説教者のための聖書講解No3638日本基督教団出版局1981)と述べておられる。

 救いは神のものであるが、私たちが救われる為には神の召しを受けて祈り、汗と涙を流し、命の危険をも顧みず、仕えてくださった多くの聖徒、主の僕がおられることを思い、純なる信仰を守り通し、終わりの日に兄弟姉妹と共に神の豊かな報いを喜びあう時を望み見つつ歩もう。