2021/1/18-23

2021/1/18(月) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1:4 賛美 新聖歌 260

 ヨハネは「あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。」と述べている。この節を口語訳聖書は「あなたの子供たちのうちで、わたしたちが父から受けた戒めどおりに、真理のうちを歩いている者があるのを見て、わたしは非常に喜んでいる。」と訳している。本節について島田勝彦師は「「喜び」は希望の輝きである。父なる神の「戒め」(Ⅰヨハ3:23)に従って「真理のうちを歩いている者」がたとえ全ての者でないにしろ存在することを「見て」発信者はそれを「喜ぶ」。ただ一人満足する受動的感情を伝えているのではない。それは「共に喜びに満ちあふれたい」(12節)という願いに結ぼれる教会的喜びを受信者にも喚起するためである。(説教者のための聖書講解No36P32日本基督教団出版局1981)と述べておられる。イエスも「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ 15: 7)と語っておられる。真理に従って歩むことはその人のみならず、教会全体の喜びであり、神の国の喜びである。
2021/1/19(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:10  賛美 新聖歌345
 9-10節において自分の罪のゆえに神の裁きを受けていることを認め、主の怒りを受けている中でも主を見上げて恵みの御業を待ち望んだ人々はついに主の恵みが実現されることを見る。この人が主の怒りを負って苦しんでいる間には主を信じない人々が彼らの苦しみを見て「お前の神、主はどこにいるのか」と彼らを嘲り、神をも罵っていた。しかしこの人々のおごりは続かない。真の主がご自分の民を救われ、恵みの業を行われる時に、真の主を侮っていた人々が神の裁きを受け、踏みつけられる。
 クリスチャンがいかなる理由によってであれ苦境に立たされて苦しむとき、神を信じない人々は神を侮り、「そのような神を信じていても意味がない」と語り、信仰者を苦しめるかもしれない。しかし、神は決して信じる者を見捨てられることはない。怒りにまさる慈しみを与え、救いと命に導く方を信じて苦境にあっても主を見上げよう。

2021/1/20(水) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1: 5-7 賛美 新聖歌 89

 ヨハネは「あなたにお願いしたいことがあります。」と記し、「わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。」と言う。「新しい掟」それは当時急速に蔓延していたグノーシス主義を指すであろう。ヨハネが求めるのは「新しい掟」ではなく、互いに愛し合うということである。イエスは弟子たちに「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハ 13:34-35)と語っておられる。またヨハネは「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(Ⅰヨハ 4: 16)と述べている。
神は罪を犯し、永遠の死に定められたものを愛し、御子を十字架につけることによって信じる者の罪を赦し、永遠の命を得ささせてくださった。それらすべては神の愛ゆえの業である。この大いなる愛を受けた者はまた、愛すべきである。キリスト者の全ては愛であり、キリスト教のすべては愛である。
2020/1/21(木)ミカ書7:11-13  賛美 新聖歌396
 苦境にある民は現実の生活を見ても救いの兆しを見ることはなかった。しかし彼らは信仰の目をもって神を見る。まだ実現していない、城壁を再建する日を望み見る。神の回復の業がなされるとき、散らされていた神の民が集められる。力をもって世界を支配している国々もそれを阻止することはできない。神が御業を行われるとき、地の国々は神の力に服する。これらの敵はその時までは傲慢であり続け、神を嘲り続けても罰を受けることはないと思っていた。しかし彼らとてまことに力をもって世界を支配される神の裁きを逃れることはない。
 真の神の力を認めることと、真の神を信じて従うことの大切さとその力を教えられる。人間の目は一時期の力関係を見て永遠の神を判断しようとする。神を侮る罪に陥ることがないよう、目を覚まして主を見上げよう。
2021/1/22(金) 担当 高谷清師 詩 59:2-6  賛美 新聖歌 467
 「目覚めてわたしに向かい、御覧ください。」と訴えた詩人は「あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。」と信仰を告白する。「万軍の神、イスラエルの神」との呼称についてカルヴァンは「最初の称号によってダピデは、神の無限の大能を、第二の称号によって、神がその子らと教会全体に対して抱かれる特別な配慮を,ほめたたえる。あなたこそ(新共同訳があなたは主と訳している箇所をカルヴァンはあなたこそ永遠者と訳している)というこの語もまた、大きな意味を持つ。あたかもダビデはこう言うかのごとくである.神がさばき主の職責を放棄することは、ご自身を否認しあるいはその本質を喪失することが不可能であると同様に、あり得ない、と。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇P255新教出版社1971)と述べている。詩編は「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。」(詩121: 4)と述べている。「悪を行う者」「流血の罪を犯す者」「力ある者」「悪を行う者、欺く者」の悪行は直下に裁きが下されないとしても、義なる神に見過ごされることはない。神を畏れつつ歩もう。

2021/1/23(土) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1:1-3 賛美 新聖歌 222

 ヨハネは「互いに愛し合うこと」について「初めからわたしたちが持っていた掟」であると言う。「「初めから」という言葉について島田勝彦師は「個々にキリストとの出会いに始まる初めを想起させる(黙2:4、使徒11:15〉。基本的にはイエス・キリストの到来に始まる「福音の初め」(マコ1:1)であり、更にその「戒め」は天地創造以前から変わることなく貫かれている神の本質、「初めからあったもの」なのである(ヨハ1:1、創1:1、Ⅰヨハ1:1、2:13-14〉。それは「愛」である。神が最初から私たちを愛されたことを見過ごしにせず私たちも互いに愛しあうことである(Ⅰヨ3:11、4:7-11)(説教者のための聖書講解No36P32-33日本基督教団出版局1981)と述べておられる。パウロは言う「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリ 13: 13)と。愛に生きよう。