2018/1/22-27

2018/1/22(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 6: 60-71 賛美 新聖歌 390
 「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」と言われたイエスの言葉についてヨハネは「イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」と記している。マタイはイエスが最後の晩餐の席で裏切るものについて語られた時の様子をマタ 26:21-25に記している。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」すると、弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。最後にユダが「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」と語られた。マルコは「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。」(マコ 14:10)と記している。
 ユダはイエスに選ばれた十二弟子の一人であり、重要な役割を委ねられていた。他の弟子たちの信頼も厚かったであろう。しかしその裏でユダはイエス引き渡す計画を進めていたのである。聖書は「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」(マコ 4:22)と述べている。何事も、人には隠すことが出来ても、神に隠すことはできない。常に真実に歩もう。

2018/1/23(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書20:1-6 賛美 新聖歌18
 パシュフルは神殿警備長官を務めていた祭司であった。神殿の秩序を維持する責任者であった彼は、神殿で厳しい裁きの預言を語ったエレミヤを処罰した。本来エレミヤが語る神のことばを真っ先に聞き分けてへりくだるべき祭司であったが、彼らもまた世の宗教権力に堕するとき、あるべき姿とは正反対に、神のことばとそれを語る預言者に敵対し、エレミヤを苦しめる者となった。このパシュフルに対して神はエレミヤを通して答えられる。パシュフルは神殿での権力を行使して神のことばを否定したが、神は神殿内での権力だけではなく外国であるバビロンの王をも用いて敵対する権力となってしまった祭司たちを罰せられる。
 エレミヤは数において神殿勢力に対抗し得ず、語る言葉も人々に受け入れられ、歓迎される言葉ではなかった。世の強大な権力に対立する言葉を語る時には人間的な恐れを感じる。しかし、神が語れと言われる言葉を忠実に語っているならば、堕落した権力よりもさらに正しく偉大な権力を持っておられる神がご自身の力を表し、主に仕える者を守られる。

2018/1/24(水) 担当 高谷清師 ヨハネ6: 6:60-71 賛美 新聖歌 384
 イエスはガリラヤに滞在し、御業を行っておられた。イエスがガリラヤに行かれたいきさつをヨハネは「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。」(ヨハ 4:1-3)と記している。そしてガリラヤに滞在しておられたのは「ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。」からである。ガリラヤにおいてイエスが「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(6:51)」と語られたことによって弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。この状況を見たイエスの兄弟たちは「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」と勧めた。メシヤとして認知される為には仮庵祭のため多くの人々が集まるユダヤに上ってしるしを行うことが最上の方法であると兄弟達は考えたのである。しかしイエスは「わたしの時はまだ来ていない。」と言って兄弟たちに勧めを拒まれた。
 世的に最上の時、最適の方法であると判断されてもそれが神の時、方法であるとは限らない。常に神に聴き、御心に従おう。

2018/1/25(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書20:7-13 賛美 新聖歌434
 パシュフルの行為に屈せず大胆に神のことばを語ったエレミヤの言葉としてはあまりに対照的で、驚きを隠せない7-10節の言葉である。しかしこれは詩篇におさめられている様々な嘆きの詩と比較すれば11-13節と併せて読まれるべき言葉であると分かる。7-10節の嘆きの部分を通してエレミヤ自身が置かれていた危機的な状況を人々に伝えている。しかしこの危機的な状況もエレミヤを打ちのめすことはなく、続く11-13節の感謝へと変えられていくのである。エレミヤは現状を通して神のことばを語ったからこそあざけりを受け、苦しんでいると理解していた。口を閉ざせば苦しみから逃れられることも分かっていながら、彼のうちから神の言葉がほとばしる。人びとがエレミヤの語る言葉を神のことばとして受け入れなかったという表面的には不成功の預言者としての職務を前にしても神の召しを疑ったり、神の召しから逃げたりすることはなかった。
 現状を憂える言葉は不信仰に聞こえるかもしれない。しかしこの客観的な現状認識に基づいてこれに続く感謝と賛美、神への揺るぎない信頼が語られる時、この否定的に聞こえる7-9節は人々に対する力強い証しの基礎になる。

2018/1/26(金) 担当 高谷清師  詩編詩 36:8-9 賛美 新聖歌 325
 ダビデは限りある人間が言い表しきれない、神の恵みとまことと義の測り知れない大きさや広がりを、力の限り讃美した。この箇所ではそのような神の恵みの中で生きる人の子らの喜びを詠っている。信仰者は神の翼のもとに身をよせることによってすべての危険と災いから守られる。パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:35-39)と述べている。与えられている神の恵みに感謝し、賛美を献げつつ、日々歩もう。

2018/1/27(土)担当 高谷由紀子師 マコ 5:18-20 賛美 新聖歌 264
 イエスは悪霊に取りつかれていた人を解放された。彼はイエスと一緒に行きたいと願ったが、イエスはそれを許さないで、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われました。彼は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。イエスはある人には「わたしに従ってきなさい」と言い、ある人には「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われる。彼らは各々、神の御心に従って、置かれた場所において主を証しし、仕えるのである。今日、召されて伝道者としてフルタイムで、主に仕える者もあれば、自分の町、自分の家族の中で主を証しするために遣わされる者もある。いずれの働きも尊い働きである。主が遣わしてくださったところで主を証ししよう。”,,637″