2019/5/6-11
- 2019.05.06
- ディボーションの友
2019/5/6(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 390
一同が過越しの食事の席に着いていた時、イエスは食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。当時のイスラエルにおいては足を洗うことは奴隷の仕事であり、それももっとも卑しい身分である異邦人奴隷の仕事であるとされていた。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを、即ちご自身が本来持っておられた天の栄光への帰還の時が来たことを悟り、最も卑しいとされる働きをされたのである。パウロはキリストの謙遜について「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(ピリ 2:6-8)と述べている。この時、弟子たちは「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論をしていたのである。イエスの謙遜に学ぼう。
2019/5/7(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:11-14 賛美 新聖歌220
イスラエルで行われていた偶像礼拝の現実が列挙されている。人々は木で作った偶像に託宣を求め、カナン土着の信仰において信じられているバアル神への礼拝儀式の一部として姦淫を行い、本当の神ではないものにいけにえをささげていた。真の神の大いなる御業を体験し続けてきたイスラエルの民がどうして真の神から離れ、力のない偶像を神とするのかと不思議に感じる。しかし実際には偶像礼拝は人間の目にあらゆる魅力をもって迫る。今の時代でもどれほど多くの人々が占いと称する「託宣」を追い求め、性的混乱を楽しみ、実態の分からない、謎めいていればいるほどありがたく感じるものに心惹かれているかと考えれば、偶像礼拝の魅力は人にとって抗いがたいものであることがわかる。
クリスチャンであればこれらの誘惑から完全に無縁なのだろうか。ホセアの時代に偶像礼拝を厳しく非難されたイスラエルの民も神と共に歩んでいた人々であった。日常生活において神の臨在と恵みに無感覚になるとき、私たちは偶像礼拝に陥る危険と隣り合わせにいることを忘れてはならない。神の憐みにより、今日も主に忠実に仕える一日を送ろう。
2019/5/8(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 374
ここで「謙遜」について考えてみたい。ぺトロは「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。」(?ペテ 5 5)と述べている。またイエスが故郷の会堂で教えられた時人々は「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」と、イエスの教えと御業に驚きつつも「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」と言ってイエスにつまずいた。イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。自分の故郷、親戚や家族は幼い時からのイエス肉において知っていた。そのことがイエスを霊において知ることの妨げとなった。パウロは「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(?コリ5:16-17)と述べている。肉によって知っているが故に、神に召され、立てられ、神の霊によって語られる言葉を、受け入れられないとすればその人にとってこれ以上の悲劇はない。
2019/5/9(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:11-15 賛美 新聖歌427
イスラエルの人々が偶像礼拝をしていたことが罪としてとがめられている。一方で彼らが完全に真の神に対する信仰から離れ去ったという非難は見られない。おそらく彼らは真の神を礼拝しながら、その信仰生活の上にカナンから持ち込まれた文化としての偶像礼拝を加えていったのだろう。そして彼らの心のうちに神に対して罪を犯しているという認識はなかっただろう。つまり、彼らは主なる神への礼拝かバアル礼拝かという選択をしたのではなく、主なる神を礼拝しながら、偶像礼拝を取り入れていったのだろう。このような場合、主から離れてほかの神々に従っていくよりも罪の自覚が薄く、罪悪感も薄い。しかし、神は二つの主人に兼ね仕えることはできないと言われる。道であり、真理であり、命である方は主おひとりであり、主イエスを通らなければ誰も父のもとへ行くことはできないからである(ヨハネ14:6)。
私たちもただ主だけを礼拝し、ただ一人の神を礼拝する者であり続けよう。
2019/5/10(金) 担当 高谷清師 詩 44:10-17 賛美 新聖歌 108
厳しい苦難の中に在って民は、自らの創生と国家の形成過程において神が示された愛と御業をよりどころとして神を賛美し信仰を言い表してきた。しかし、苦難は過ぎ行かず、彼らを取り巻く者たちの嘲りと罵りは募るばかりである。報復しようとする敵もいるのである。このような状況下でも神はもはや古のように立ち上がってはくださらず、沈黙を守っておられる。月本昭男師は詩篇が示す民族の苦難について二通りの理解を語っておられる。「民族的苦難を民の「背き」に対する神ヤハウェの「怒り」と理解される場合がそのひとつである。(中略)もうひとつは、本詩がそうであるように、苦難を一方的な神ヤハウェの仕打ちと受けとめる場合である。」(『詩編の思想と信仰?』新教出版社2006、P247)と。A. ヴァイザーは「祈る会衆が神の前で嘆くのは、もっぱら心を注ぎ出すことで苦痛を軽くしようとしているのだという観点からだけこの嘆きを考察するならば、この詩の嘆きの意味を正しく把揮できないであろう。たしかにこの詩の中にも、神の前に苦しみをおおっぴらに持ち出して祈る本来の信心が表れている。だがこの苦しみは、人間のことに限られてはいない。それは神の問題に入りこんでいる。この問題はすべての発言の背後にひそんでいるが、13節ではきわめて明確な形をとって現れている。神はその民を捨ててどんな得をされるのかという問いには、答えが与えられていない。自分の財産を相応の値段で売る人のように、神が少なくともそこから何かを得られると言うのなら、まだしもである。不可解な苦難が神にとってどんな意味があるだろうかという問い、これこそ苦難にあった民の信仰の危機を招くものである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATD・NTD聖書註解刊行会1985、P17−18)と述べている。恵みに生かされているわれらはこの問いの答えを御子の十字架に見る。パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(?コリ1:18)と述べている。
2019/5/11(土)担当 高谷由紀子師 創 1:31 賛美 新聖歌 86
さわやかな新緑の季節を迎え、家庭菜園を楽しまれる方々はゴールデンウィークを夏野菜の種まきや植え付けに過ごされた方も多いのではないでしょうか。スイカの苗を植えるとスイカが実り、トマトの苗を植えるとトマトが実ります。あたりまえのようですが、よく考えると実に不思議です。それぞれ、種類に従って成長し、結実します。神の創造の御業を讃えずにはいられません。私たち一人一人は神様によって創造されました。その神様は「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。」(イザ 43:4)と語っておられます。逆境の中に在るとしても神様の愛と憐れみの御手により頼みつつ歩みましょう。
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