2019/4/29-5/4

2019/4/29(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 214

 ヨハネは本福音書13:1-20にイエスが最後の晩餐の席において弟子たちの足を洗われたことを記している。1-3にはこの出来事の背景が記されている。時は過越祭の前、夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせおり、イエスはそれをご存知であった。また、イエスはこの世から父のもとへ移る御自分の時が来たこと、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟っておられた。このような状況の下でイエスは弟子たち一人一人の足を洗われたのである。それはイエスが世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたからである。この席にはイエスを裏切ろうとしているユダも同席していた。イエスはご自分を裏切ろうとしている者をも愛し抜かれたのである。聖書は「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(?サム 16: 7)と述べている。模範的信者を装う者の心にも時として主に背く思いが忍び込むことは人の常である。しかし主の十全の愛はそのような時にも注がれている。その愛は悔い改めて立ち返ることを求めている。
 
2019/4/30(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:4-6  賛美 新聖歌389
 ここでは祭司と預言者の罪が指摘されている。彼らが告発されるのは彼ら自身の務めを果たさなかったからである。祭司は神に関する知識である律法を民に教えるべき責任を負っていたにもかかわらず、教えなかった。それ故に祭司はその職から退けられる。また預言者も彼らの職務に怠慢であったため、神から退けられる。神が民を裁かれるとき、移り気な感情に任せて裁かれるのではない。人々がそれぞれの立場で神にゆだねられた働きに対して怠慢あったがゆえに裁かれる。祭司が法について教えなければ、誰が律法を知り、主を知ることができるだろうか。
 一人一人が忠実に神にゆだねられた働きを行うことによって多くの人が神を知り、神に仕えることができる。教職として神の言葉を教える立場にある者だけではなく、神に出会って救われた一人一人がみ言葉を通して知った神を伝えていくことによって、より多くの人が主を知る機会を得ることになる。それぞれの立場において主の言葉を教えていこう。
 

2019/5/1(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 458

 「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」と記されている。670でイエスは「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」と語っておられる。イスカリオテのシモンの子ユダがイエスを裏切る考えを抱かせられたのは以前からであった。創世記の蛇と女の記事からわかるように、悪魔が人に神を裏切る思いを抱かせるのは一寸の隙をついて神の言葉に疑いを抱かせることから始まるのである。また、ヨブ記からわかるように悪魔は特別な世界にいるのではなく、日常、私たちが生活している中にいるのである。更にユダについて「ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。」(ヨハ 13: 29)と記されている。ユダはイエスの弟子団の中で主要ポストを占めていたのである。「あの人は主要ポストにあるから」「私はいかがわしい場所には近寄らないから」と言ったことは当てにならない。ヨハネの「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」(?ヨハ4:1)という言葉に耳を傾けよう。聖霊に満たされて霊を吟味しょう。
 
2019/5/2(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:7-10  賛美 新聖歌148
 祭司たちについての告発が続く。この時代、祭壇の数が増えるにつれて祭司の数が増していた。祭司にとっては民が罪を犯したときに持参する献げ物の動物の各部が収入となり、家族を養う。つまり、この時代の祭司は宗教を祭司自身と家族を養い支える手段としていた。一方、民の側でも罪を犯したとしても宗教の規定に則ってささげものをささげたら赦しを受けられるという便利な処理方法を利用していたのであろう。神を知る知識が伝えられず、憐みを失った時代には人々と神との生きた愛の交わりによる生が失われる。もちろん信仰の導き手としての祭司も同様である。このような神との冷えた関係に陥った事の責任を、本来教え導く責任をゆだねられた祭司に求められる。
 今日も神に召されて神を伝え、神の言葉を教えるべき働き人は宗教を利用するような働きではなく、生きた神を伝え、教える務めが与えられていることをもう一度深く考え、ゆだねられた働きを忠実に行おう。また、神の前に歩む一人一人が、便利に宗教を利用する信仰生活に陥らないよう、祈りのうちに主との生ける愛と憐みの関係に歩もう。
 
2019/5/3(金) 担当 高谷清師  詩 44:5-9 賛美 新聖歌 346
 民は今、厳しい苦難の中におかれている。神はかつてエジプトで奴隷であった民を導き出し、何ら軍事的に訓練されていない民を雲の柱、火の柱をもって当時の世界最強のエジプト軍から守り、民の土地取得、国家創建にはご自身が先立って勝利をもたらされた。それは人の思いをこえる神の愛の奇跡によったのである。このことを念頭に、詩人は「神よ、あなたこそわたしの王。ヤコブが勝利を得るように定めてください。あなたに頼って敵を攻め/我らに立ち向かう者を/御名に頼って踏みにじらせてください。」と祈る。そして「わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。自分の剣によって勝利を得ようともしていません。我らを敵に勝たせ/我らを憎む者を恥に落とすのは、あなたです。」と告白する。マルコは十二年間も出血の止まらない女について「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(マコ 5:26)と記している。人は問題に遭遇すると世に解決策を求めようとする。しかしすべての問題の解決策は神のみにある。このように記すとある種の人々からは「病気に罹って医者に行くのは不信仰」と言った議論が提示されるかも知れない。私は病気に罹れば疑うことなく医者に行く。医学万能と信じるのではなく、医学は神が私たちに与えてくださった恵みとして受けるのである。
 

2019/5/4(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 4:13-14 賛美 新聖歌 433

 まれに見る十連休も終わりに近づいてきました。この機会をとらえ、楽しみを求め、心の満たしを求めて国内外の旅行に出かけ、あるいはスポーツやその他の趣味に親しまれたことでしょう。ある人々はそれらの計画を終えて自宅で憩い、ある人々は行程のまただ中に在って楽しみを満喫しておられるかも知れません。しかしこのような計画を終えた後心をよぎるのは虚しさです。イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハ 4:13-14)と語られました。神によって造られた私たちの魂は神の言葉以外で満たされることはできないのです。