2019/4/22-27

2019/4/22(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:44-50 賛美 新聖歌 182

 続いてイエスは「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」と語られる。イエスは神によって世を救うために光として遣わされ、世に来られた。世を裁くために来られたのではない。従ってイエスの語られる言葉を聞いても守らない者があってもその人を裁かれない。しかし、イエスの言葉を聞いても、それを守らない人は、その聞いた言葉そのものが終わりの日に彼を裁くのである。パウロは「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」(?コリ2:15-16)と述べている。
 
2019/4/23(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:1-3  賛美 新聖歌170
 主がイスラエルの人々を法廷に告訴される。一般的に法廷で争われる内容は具体的な行為、出来事である。ここでの神の訴えの中心はこの国には誠実さと慈しみと神を知ることがないことである。これは具体的な個々の犯罪行為ではなく、人々の心のありようと神に対する関係性を問うものである。慈しみを示し続けてこられた神とは対照的にイスラエルには慈しみがない。さらに彼らは歴史を通じて常に神について体験し、神について父から子へと受け継いできた教えがあるにもかかわらず、神を知らない。神についての知識と法は学んできたかもしれないが、彼らは神を知らない。神を体験せず、神との個人的な人格的な関係において知ることがない。この神を知らず、神と無関係に生きる姿勢があって、その結果、呪いと欺きという言葉による罪を犯し、また殺しや盗みや姦淫や流血という十戒を破る罪が具体的に続く。
 私たちは悪や罪と言えば具体的な行為を問題にする。しかし神が告発されるのは神を知っているか、神との関係に生きているかという生き方の姿勢についての罪があって、その結果としての人の行動が問題となるという。私たちは神を知り、誠実と慈しみによって歩んでいるだろうか。
 

2019/4/24(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:44-50 賛美 新聖歌 201

 イエスは「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。」と語られる。ジョン・C・ライルはこの箇所を解釈して「わたしは、あなたがたが信じたいと思うかどうかにかかわらず、この使信、命令、あるいは使命が、父なる神から与えられたものであり、それを受け入れて信じる者すべてに永遠のいのちを与えるものであることを知っています。あなたがたは心が盲目なので、わたしが語る使信と、わたしが宣ベ伝える教理のすばらしさに気がつきません。しかし、それを拒むことによって、あなたがたは永遠のいのちを拒んでいることを、わたしは知っています」ということであると思われる。(ライル福音書講解ヨハネ3聖書図書刊行会1987244)」と言っている。イエスの言葉に躓いて多くの者たちがイエスのもとを去って行った時、イエスが十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われたのに対しシモン・ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハ 6:68)と答えている。父なる神と一つであられるイエスの言葉は父の言葉であり、それは永遠の命である。日々、御言葉を生きよう。
 
2019/4/25(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:1-3  賛美 新聖歌427
 神の告発はイスラエルの人々の犯した具体的な罪を指摘するだけにとどまらず、その結果が地とそこに住む生物にも影響を与えるものであることを述べる。人間が神を知らず、神を恐れず、自分勝手に行動してあらゆる罪を犯していくとそれは環境破壊につながる。人が罪の結果に苦しむだけではなく、神が造られたすべての物が衰え、うめく。これは現代社会において私たちが直面している状況を考えるとよく理解できる。利便性と快適さを追求してきた自己中心な資源利用の結果、被造物は破壊され、同時にそれによって人間自身が苦しむ。
 環境破壊と私たちの罪性を普段は別のものとして考えているかもしれない。しかし、神は私たちに被造物を治めるという責任を託された。神が与えてくださった恵みとしての被造物と環境をしっかりと受け止め、神を知り、神を愛して従う一個人として、どのように管理していくべきかと考えることもまた神の前に誠実に生きる一つの具体的な生き方であろう。
 
2019/4/26(金) 担当 高谷清師  詩 44:5-9 賛美 新聖歌 321
 4節の「これがあなたのお望みでした。」と訳された言葉を協会共同訳は「あなたが彼らを望まれたのです」と訳し、口語訳とATDは「あなたが彼らを恵まれたからです」と訳し、新改訳は「あなたが彼らを愛されたからです」と訳し、フランシスコ会訳は「あなたがかれらを愛したゆえに」と訳している。A. ヴァイザーは「イスラエルに住む場所を与えるために神がカナンのもろもろの民を追い払われたことは、土地取得伝承のつきぬ主題ではあるが、この大昔の救いの事実を、ヤハウェ共同体は現在のこととして受けとめ、彼らの神のおどろくべき力によるものであることをわきまえている。その力の背後には、人の思いをこえる神の愛の奇跡がある。この詩の問題の中心はこの確信である。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P16)と述べている。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)と述べ、パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(?コリ 1: 18)と述べている。神の愛と恵みと御心に対する確信は、いかなる時にも信じる者の祈りの基礎であり、希望であり、力である。
 

2019/4/27(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 15:16 賛美 新聖歌 89

 私は青春時代に自分の生きる根拠について思い悩む日々を送っていました。そのような時、クリスチャンである友人が「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(?ヨハ4:10)と言う御言葉を話してくれました。それによって自分は神様に愛されていることを知りました。その友人はまた「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハ 15:16)と言う御言葉を話してくれました。それによって生きることの意義を知りました。人は神様を知ることによって充実した生涯を送ることが出来るのです。