2019/9/9-14

2019/9/9(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:27 賛美 新聖歌 252

 三年六箇月に亘ってイエスに全幅の信頼を置き、信じ、従ってきた弟子たちとの別れの時が目前に迫ったこの時、しかも、弟子たちはそのことを認識していない中でイエスは弟子たちに「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と語られる。パウロは「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ロマ 5:1-2)と述べている。イエスはご自身の十字架によって信じる者に神との和解を得させてくださった。それによって信じる者に平和が与えられたのである。勿論、生身をもって生きる私たちには経済的、社会的恐怖、病の恐怖、死の恐怖・・・・・等がつきまとう。三浦綾子氏は癌と診断された時「神が与え給うものに悪いものがあろうか。私は癌をあたえられ、その恵みに感謝する」と記している。イエスを信じる者の平安がここにある。
 
2019/9/10(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書14:2-4  賛美 新聖歌165
 厳しいさばきの宣言に続いて、イスラエルへの悔い改めが呼びかけられる。明確に悪の中にいると言われているイスラエルにもまだ悔い改めの道は開かれている。当時、人々が悔い改めのために神の前に出るときに携えていったのは犠牲の動物であった。しかしここで彼らが携えていくべきは誓いの言葉である。それは見せかけの悔い改めや、高慢な言葉ではない。それは自らの罪を自覚した民が、その罪を赦すことができる神の恵みを求める真の悔い改めの言葉である。そしてこの真の悔い改めには誓いを果たすという行動の決意が伴う。そして神を頼ることを告白したのだから、もはや他国の力、真の神ではない人の手で刻まれた偶像に憐みを見出そうとすることなどない。
 神が求められたのは形式を整えた悔い改めの儀式ではなく、神の力を認め、神の憐みにすべてをゆだねる献身を伴う悔い改めである。一人でも多くの人がこの悔い改めに導かれるよう祈ろう。
 

2019/9/11(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:27 賛美 新聖歌 247

 イエスは弟子たちに「平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」と語られた後、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」と語られる。かつてイエスは「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタ 20:25-28)と教えられた。またイエスは最後の晩餐の席において弟子たち一人一人の足を洗い、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ 13:34)と教えられた。またぺトロは長老たちに対して「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」(?ペテ5:3-4)と語っている。キリストの平和はキリストの戒めを守ること、愛すること、仕えることによって与えられる。
 
2019/9/12(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書14:5-8  賛美 新聖歌396
 民の心からの悔い改めを受けて神の約束が与えられた。神は民への赦しに加えていやしをも与えられる。かつて6:4では偽りの悔い改めを告白する民に対して、エフライムは日が昇れば消えてしまうあてにならない朝露のようだと、その心の移ろいやすさが批判されていた。しかし14:6では神ご自身が命をつなぐ朝露であると言われる。朝露を受けたイスラエルは若枝が広がるオリーブやレバノン杉のように大きく、美しく育ち、やがてそれは人々に休み場を与える。その時、大きく成長するのは神が与えてくださったその恵みの陰に宿る人々である。
 罪に対しては大変厳しい神が、心からの悔い改めを告白し、神にゆだねて頼り切る人々には素晴らしい恵みを伝えてくださる。神から何かしらの恵みを受け取るための告白にではなく、自らを省みるときに自覚される罪からの決別に対する大いなる恵みをいただきたい。
 
2019//13(金) 担当 高谷清師  詩 48:2-4 賛美 新聖歌 224
 詩人は神とその都について「大いなる主、限りなく賛美される主。/わたしたちの神の都にある聖なる山は/高く美しく、全地の喜び。/北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。」と詠う。エルサレムには神の箱が安置され、神殿が奉献された。神がそこを選んでご自身の住み家とされた場所である。そこには神の臨在があり、神の栄光に満ちていた。しかし、民の罪によって栄光は去り、神殿は破壊されたが、神はエルサレムを永久に捨てることはなさらなかった。詩人は「その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される。」と詠っている。神はこのエルサレムにおいて独り子を十字架につけ、ご自身の契約の民ばかりでなく、地上のすべての民の贖いの御業を成し遂げてくださった。そして信じる者の罪を赦し、彼の内に住んでくださるのである。パウロは「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(?コリ 3: 16)と述べている。神の神殿として、信仰に立ち、神の聖と神の義に生きよう。
 

2019/9/14(土)担当 高谷由紀子師 マタ 4:1-4 賛美 新聖歌 316

 イエスが悪魔によって試みを受けられた時、四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられたイエスに悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と言った。これに対してイエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」とお答えになった。イスラエルの民がモーセによってエジプトから導き出された時、彼らは荒野を旅しなければならなかった。聖書は「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申 8:3)と述べている。真に私たちを生かすのは神の言葉である。