2019/9/2-7

2019/9/2(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:22-24 賛美 新聖歌 176

 ここでイスカリオテでない方のユダが、イエスに「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」との問いを発する。これに対してイエスは「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」と答えられる。ヨハネは「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(?ヨハ 4: 8)と述べている。またパウロは「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(?コリ 2:14)と述べている。世は神を愛さない者であり、自然の人である。それ故、彼らは神を知ることが出来ない。主は「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(黙 3:20)」と語っておられる。「戸を開く」とは神を愛することであり、神を愛する者は神を知ることが出来るのである。
 
2019/9/3(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書13:9-11  賛美 新聖歌154
 神に背いたイスラエルには裁きとして破滅が来ると明言される。国が苦境に陥ったとき、民は王を頼りにした。こんな時こそ助けてくれると王に期待をかけた。しかし、民が望みをかけた王はどこに行ったか分からない、と神は言われる。各国の興亡を見てきたイスラエルは王が国を守る人だと望みを置いてきたが、民自身が望んで得た王もこの破滅から民を守ることはできない。
 サムエルの時代に民自身が王を求めて、神が民に対する様々な警告と共にそれを容認された。しかし裁きという神のご決断の前に人間社会は無力である。人間の手でそれを乗り越えることはできない。どれほど優れたシステムや国家の形を持ったとしても、まことの力はただ神だけから来るのである。人の手で考案したものに頼るのではなく、神に頼ろう。
 

2019/9/4(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:25-26 賛美 聖歌 501

 主イエスは三年六か月に亘る公生涯において多くのことを語り、教えられた。弟子たちはこれらのことを聞いたが、そのすべてを理解し得たわけではない、記憶しているわけでもない。音声として記憶に留めたとしても、理解には至っていない事柄も多い。また、記憶から失われた事柄も少なくないであろう。しかし、父は去って行かれたイエスの名によって弁護者、助け主なる聖霊を遣わしてくださる。このお方は教会にすべてのことを教え、イエスが話されたことをことごとく思い起こさせてくださる。このことについてジークフリート・シュルツは「地上のイエスの言葉の想起というこのことは、単なる歴史的な再構成とか素朴な繰り返しではなく、地上を歩む神が語り、行いかつ苦しんだことを、共同体の告知の中で聖霊の働きによって現在化することである。」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書 NTD新約聖書註解刊行会1975366)と述べている。聖霊は今も信じる者と共に居てイエスのみ言葉と御業を現在において生き、働くものとしてくださるのである。現在を生きる私たちは聖霊の助けによって神のみ言葉を生きることが出来るのである。
 
2019/9/5(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書13:12-15  賛美 新聖歌165
 人の願いによって得た王が役に立たないと思い知らされた民は、神が憤りをもって王を取り去られる時が来たことを告げられた。そしてさらに再びエフライムの罪によって招かれた神の変わらぬ裁きが告げられる。14節はこの裁きの真っただ中にあって一筋の救いの希望を垣間見せると理解されることも多い。しかし、ホセア書の流れの中ではこれを一連の裁きの宣告として理解することができる。死でさえも神の支配のもとにあり、神は死をも用いて悔い改めない罪人をとらえることがおできになる。
 神が最終的にホセア書において宣言された裁きは決して侮ることができない。神はご自身の気分によって裁きをなさるお方ではない。神の前に生きる者は、神に従って正しく歩むことを日々祈りと知恵によって選び取らなければならない。
 

2019/9/6(金) 担当 高谷清師  詩 47:6-10 賛美 新聖歌 458

 詩人は信仰の目をもって、全地の主なる神が王の座に着かれるのを見て「神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。」と詠う。更に「神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。」と詠う。神の王としての統治において、諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。神はアブラハムに対して「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創 22:18)と約束された。終わりの時には御子イエスの贖いの恵みにより、信じるすべての人々が祝福に与るのである。これこそ、すべての信仰者の希望であり喜びである。イエスは弟子たちに「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハ16: 33)と教えられた。ヘブライ人への手紙の記者は迫害の中を生きた聖徒たちについて「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(ヘブ 11: 13)と述べている。困難な中にあっても信じる者に備えられている栄光を望みつつ、堅く信仰に生きよう。
 

2019/9/7(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 15:1-7 賛美 新聖歌 217

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来たのを見て、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだしました。そこでイエスは「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」と語られました。そしてイエス様は「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と教えられました。神様にとって、一人の魂の救いはこんなにも重要なことなのです。魂を救いに導く福音を証しし続けましょう。