2019/8/26-31

2019/8/26(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:18-20 賛美 新聖歌 458

 イエスは「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」と語られる。「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」という言葉はしばしば説教者を悩ませる。26節には「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と記されているが、それは私たちの救いについて必要な真理のすべてであって、神のすべてではないであろう。パウロは「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(?コリ13:12)と述べている。更に「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ロマ 3: 25)と述べている。聖書に啓示されたすべてを、現段階において理性において把握することはできない。神の言葉は理性と共に、信仰によって、霊によって受け止めるべきものである。固く信仰に立とう。
 
2019/8/27(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書13:4-6  賛美 新聖歌233
 重ねて神はご自分を示される。神こそが歴史を通してイスラエルを導いてこられた方である。神こそが、大いなる救いであるエジプトからの解放を成し遂げてくださったお方である。そして他にはこのようなことができる存在はないのである。神だけが大いなる力をもって民を顧み、いつくしみ深い牧者として世話をして、民を満ち足りさせてくださった。これほどの恩を受けた人々は一般的に「この御恩は一生忘れません」と言って神に感謝し、敬いつつ一生ともに歩んでいくだろうと私たちは期待する。しかし反対に、神は彼らに対して、自分たちの欲求が満たされたら鼻高々になって神を忘れると言われた。
 人は受けた恵みをいとも簡単に忘れる。忘れたのだから、その恵みを与えてくださった神をないがしろにしていることに自責の念を感じてもいない。しかし神の恵みの一つ一つは、人が覚えていようといまいと、神から与えられた祝福である。自分が恵みの源であるかのように振舞って、神を忘れるという罪を犯してはならない。日々恵みを数えよう。
 

2019/8/28(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:21 賛美 新聖歌 342

 先にイエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(ヨハ 14:15)と語られた。ここにおいては「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」と語られる。イエスの掟を受け入れ、それを守ることはイエスを愛していることである。父が愛しておられる御子を愛する者を父は愛してくださる。父が愛される者を御子もまた愛し、その者にご自身をあらわしてくださる。このように、イエスを信じる者は父なる神と御子イエスとの素晴らしい愛の交わりに入れられるのである。満ち満ちる愛の内にあって、父なる神と御子イエスと信じる者との深く豊かな交わり、これこそ御国の姿であり、キリスト者に与えられている至福の世界である。世はこれを見ることも知ることも決してできない。与えられている祝福を感謝しつつ、愛の交わりに生きよう。
 
2019/8/29(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書13:7-8  賛美 新聖歌284
 人間は優しく、忍耐強く、恵みに満ちていて、あらゆる危険や事故から守り、常に励ましてくださる、自分に都合の良い神を求める。ホセア書にここで語られている神の姿はそのような人間の期待とは正反対の神である。愛情をもって世話をやく牧者のような神から一転してこのような恐ろしい存在になった神を人は拒否し、その変貌に戸惑う。私の信じる神は7-8節で語られるような野蛮で恐ろしく、愛の欠けた方ではない!と主張するとき、人は7節冒頭の「そこで」という言葉を完全に忘れている。神が厳しく臨まれるなら、その原因となる罪があるのだ。神はいつでも人間の欲求を満たしてご利益をもたらすための道具ではない。神は愛に満ちた方だが、ご自身を神としてあがめ、仕えることを求められる神である。
 神から「飴」を引き出すことばかり考えたり、いただいた恵みを忘れて他のものを神としたり、自分を神の座につけたりしてはいないだろうか。心からの礼拝を受けるにふさわしい父なる神を見上げ、礼拝しよう。神を侮る心があるなら、悔い改めて赦しをいただこう。
 
2019/8/30(金) 担当 高谷清師  詩 47:2-5 賛美 新聖歌 21
 詩人は「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。」と詠う。何故なら神は第一に、いと高き神、畏るべき方、全地に君臨される偉大な王であられるからである。ケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たアブラムを迎えたメルキゼデクは「天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。」(創 14:19)と言っている。また、アブラムはソドムの王に「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。」(創 14:22)と語っている。マルコは「ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。」(マコ15: 2)と記している。黙示録は「わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、/全能者であり、/わたしたちの神である主が王となられた。」(黙 19:6)と述べている。神こそ全地に君臨される偉大な王であられ、喜び歌い、畏れをもって仕えるべきお方である。
 

2019/8/31(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 21:20-23 賛美 新聖歌 337

 復活されたイエスは弟子たちにご自身をあらわ、ぺトロに「わたしに従いなさい」と言われました。ぺトロが従って行き、振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えました。そこでぺトロは「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言いました。これに対して「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われました。私たちが信仰生活を送っていく時、周りの人のことがいろいろと気になります。しかしイエスは「あなたは、わたしに従いなさい。」と言われます。神様は一人一人に対して,異なったご計画を持っておられます。私たちは自分と神様との関係において全身全霊をもって従いましょう。