2019/9/16-21

2019/9/16(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:28 賛美 新聖歌 233

 イエスとの離別の時を前にして弟子たちの心は悲しみに満たされていた。その弟子たちを見ながらイエスは「『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。」と語られる。この箇所についてカルヴァンは「疑いもなく弟子たちはキリストを愛していたが、しかるべきかたちでではなかったのである。それというのも、かれらの愛には、なんらかの肉の思いがまじっており、かれらはキリストから切りはなされることを、耐えることができなかったからである。かれらがキリストを霊的に愛していたなら、かれが父なる神のところに帰ることを、このうえもなくよろこんだことだろう。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書下新教出版社1965下P482)と記している。イエスは「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」(ヨハ 17: 5)と祈られた。イエスが地上の生涯を終えられることは天の栄光にはいられることであり、同時にそれは信じる者がイエスに在ってその栄光に与ることである。ここにキリストの掟を守る者、イエスが愛されたように愛する者の喜びがある。
 
2019/9/17(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書14:9  賛美 新聖歌427
 14章でイスラエルの回復と祝福が語られてきた。民に対する悔い改めの呼びかけがあって(14:2-4)、そのあと神からのいやしが宣言された(14:5-8)。ついに民は悔い改め、神に立ち返ったのだ!と期待する。しかし9節の言葉からはまだ民が偶像礼拝を続けている様子がうかがえる。彼らの偶像礼拝にもかかわらず、神はご自身の選択として彼らをいやされた。そしてなおも神は民から一つのことを期待しておられる。それは民が偶像礼拝から自由になることである。民自身が望んでいるにもかかわらず神によって取り上げられたから偶像礼拝をあきらめるというのではなく、民自身が真の命の源は神であることを見出し、比類なき神を人間の手で作った偶像と比べる必要も感じなくなり、偶像礼拝の必要を覚えず、偶像礼拝から解放されることであった。
 ホセアが語り続けてきた姦淫の罪、偶像礼拝の罪からの解放は容易ではない。しかし私たちが真の神のすばらしさ、この方こそが恵みと命の源であることを正しく知るとき、人の手で作り上げた偶像はもはや必要なくなる。主を見上げよう。
 

2019/9/18(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:29 賛美 新聖歌 201

 イエスは「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」と語られる。弟子たちとの離別の時が目前に迫っている状況下で必死に教えられる。しかし弟子たちの理解力はそれに伴わない。イエスは「事が起こったときに、あなたがたが信じるように」と言われる。復活の朝の出来事についてヨハネは「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(ヨハ 20:7-9)と記している。御言葉を読み、聞く時、そのすべてを理解できるわけではない。しかし、聖霊はその時、その場に応じて心に蓄えられたみ言葉に光を与え、真理に導いて下さる。わたしたちはそれによって御言葉に生きることが出来るのである。御言葉を読み、聞き、祈ることを励もう。
 
2019/9/19(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書14:10  賛美 新聖歌366
 知恵の言葉でホセア書全体が締めくくられる。詩編1編を思い起こさせるこの言葉は、これまで語られてきた預言に対する応答の呼びかけである。神を知り、そして分別をもって応答せよと言われる。主の道こそが正しいのである。神に従う者は神の言葉に従って命を得る。しかし神を拒み、神に背く人々は神の正しさに躓く。まさに現代の社会においても同じことが繰り返されている。神を神として知ること、そして神こそがただお一人、正しい方であって、人間は神の正しさを持っていないことを知るときにこそ、神に信頼して神に従う道が開かれる。
 ホセアは書物全体を通じて偶像礼拝から離れ、ただ神のもとに立ち帰り、神と共に歩むよう呼びかけてきた。今の時代にも神の呼びかけは変わらない。今神を信じて歩んでいる私たちも、常に神の正しい道を見極め、正しい神に従い命を得ていきたい。また、まだ神の道を知らない人々が神を神としてわきまえられるようとりなして祈り続けよう。
 
2019//20(金) 担当 高谷清師  詩 48:5-8 賛美 新聖歌
 詩人は「見よ、王たちは時を定め、共に進んで来た。彼らは見て、ひるみ、恐怖に陥って逃げ去った。」と詠う。共に進んで来た王たちの見たものは「産みの苦しみをする女のもだえ、東風に砕かれるタルシシュの船。」であったからである。モーセに率いられてエジプトを後にしたイスラエルをファラオは馬と戦車、騎兵と歩兵をもって追いかけ、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営しているイスラエルに追いついた。イスラエルは紅海に行く手を阻まれ、背後から迫りくるエジプト軍によって絶体絶命のピンチに立たされた。その時神は栄光を現わされた。先頭に立ってイスラエルを導いておられた雲の柱は後方に移り、エジプト軍を近づけなかった。神は水を分けてイスラエルを渡らせ、イスラエルを追って海に入ったエジプト軍は全滅した。神の栄光に遭遇したエジプト軍は恐怖を覚え、「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」(出 14:25)と言ったが、時は既に遅くエジプト軍は全滅した。パウロは「神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」(?テモ6:11-12)と述べ、「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方」(?テモ6:1516)と述べている。神が栄光を顕される日まで信仰の戦いを立派に戦い抜こう。
 

2019/9/21(土)担当 高谷由紀子師 マタ マタ 4:12-17 賛美 新聖歌 449

 イエスの福音宣教は町はずれの田舎から始められました。そして貧しい人々、病める人々、苦難の中にある人々、に語られました。宣教の始めの言葉は「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉でした。天の国が近づいた時私たちがしなければならないことは「悔い改め」です。パウロは「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」(使 17:30)と語っています。真の悔い改めをもって日々歩みましょう。