2019/9/23-28

2019/9/23(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:30-31 賛美 新聖歌 373

 イエスは「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。」と語られる。イエスが最後の晩餐の後弟子たちに語っておられる間にも、ユダの内に入った悪魔はイエスを無き者にしょうとして着々とその働きを進めていた。そのことを知っておられたイエスは「彼はわたしをどうすることもできない。」と語られたのである。何故なら、イエスは父を愛し、父がお命じになったとおりに行っておられるからである。世はイエスを憎み、イエスを捕らえ、十字架につけ、地上から抹殺した。彼らは自分たちの勝利に歓喜した。しかし、実際には、それによって神のご計画を成就したのである。則ち、神は罪人を愛し彼らを救うために罪無き独り子を遣わし、十字架につけ、その血によって人類の罪を贖うこととされたのである。悪魔はこの神のご計画を成就したのである。パウロは「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ 8: 28)と記している。人の目には失敗と見える中に神は御心を為され、勝利を取られる。神を信じて歩もう。
 
2019/9/24(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:1  賛美 新聖歌38
 預言書は通常、預言者の紹介や活動した年代を王の名によって明記することから書き始められる。しかしヨエル書の書き出しの部分には時代を特定する手掛かりが何もない。ただ預言者の「主は神である」という意味を持った名前が記されているだけである。時代背景が分かれば、預言者とユダまたはイスラエルの国が置かれている状況が理解でき、神のメッセージをより深く考えることができる。しかしヨエル書ではこのような読み方はできない。この書物に言及されているいなごの大群の襲来による農作物被害という現実の中で、神の言葉を神のものとして聞きなさいという招きを私たちは受ける。
 神の言葉を語られた通りに聞くことは意外と難しい。受け止めるのが「私」である以上、自分の物事の見方(主観)が入り込む。また、記された言葉を最初に受け取った人々の気持ちを推察し、その人になった気持ちで受け取るというように、他人の視点を通して理解してしまう。これは「主の言葉」(1:1)である。なによりも主の言葉を求めて聞こう。
 

2019/9/25(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:1-10 賛美 新聖歌 342

 イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と語られる。ブドウは当時のパレスチナ地方では広く栽培された作物であった。従ってこれを聞いた人々の心に強い印象を与えたであろう。イエスはご自分がぶどうの木であり、弟子たちはその枝であると言われる。私たちの国では時あたかも秋、豊かな実りと収穫の季節を迎えようとしている。しかし、テレビは台風の接近を伝えている。実を付けた枝も強風で折れ、幹から離れてしまうと実を熟させることはできない。集められ、火に投げ込まれるだけである。強風に耐え、幹につながりとおした枝だけが豊かに実を結ぶのである。クリスチャン生涯には試練と逆風がつきまとう。そのような中に在って最後まで主イエスにつながりとおし、豊かな実を結ぶ者になろう。
 
2019/9/26(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:2-3  賛美 新聖歌434
 ヨエルに託された神の言葉は、預言者が住む同じ地に住む人々への語りかけで始まる。最初の命令は「聞け」である。申命記においても「聞け」(6:4)という命令は非常に重要なものであった。たまたま耳に入ってくる雑音のように聞き流すのではなく、心を傾け、意識を集中して聞き、受けとめなさいと言われる。神が語られることはばしっかりと聞くべきものである。そして聞いたならばそれを次の時代に語り伝えていくべきものである。神の言葉は人に対して語られ、聞いた人はそれをしっかりと受け止めて次の世代へと受け継いでいく責任を託されている。神の言葉は目の前にある現実の出来事を扱っていながら、その問題に直面しているその時代の人だけに語られたものではなく、世代を超えて受け継がれていくべきメッセージなのである。
 心を傾けてしっかり神の言葉を受け止めているだろうか。そして自分本位になる危険を逃れて神の御心をくみ取るように聞いたならば、それを次へと伝えているだろうか。恵みを自分のうちにとどめず次の世代に、周りの人々に語り伝えていこう。
 
2019//27(金) 担当 高谷清師  詩 48:9-12 賛美 聖歌 602
 詩人は「聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た/万軍の主の都、わたしたちの神の都で。神はこの都をとこしえに固く立てられる。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「この文章の主旨はこうなるであろう。信仰者はただに、歴史の中に神の慈愛と大能のあかしを持つだけでなく、その父祖の言い伝えによって、以前に聞き知ったことを、実効と体験を通じて、みずからの目をもって見さえした」と。また「そのようにして、神は常にご自身にとって変わることがないので、昔の日に示されたその恵みの実例を、不断のあかしを通じて、代々とこしえにまで確証される」と。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P132新教出版社1971)。マラキ書には「まことに、主であるわたしは変わることがない。あなたたちヤコブの子らにも終わりはない。」(マラ 3: 6)と記されている。更にぺトロは「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(?ペテ 1: 25)と記している。神は変わることの無いお方である。聖書に記された神の恵みの御業は単なる過去の物語ではない。御心ならば今日も行われるのである。生ける主を仰ぎ見つつ歩もう。
 

2019/9/28(土)担当 高谷由紀子師 マタ4:18-22 賛美 新聖歌 395

 シモンとアンデレは兄弟でした。今日も、いつもと変りなくガリラヤ湖で網を打ち、漁をしていました。特別な場所ではなく彼らの仕事場で生きるために必要な糧を得るために働いていたのです。そこに主イエスが近付いてこられ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたのです。すると二人はすぐに従って行きました。そこから進んで行かれたイエスはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になり、彼らをお呼びになると彼らも舟と父親とを残してすぐにイエスに従いました。彼らは「父がいますから」と言って断ることをしませんでした。イエスのみ声を着た時、すぐに従う人になりましょう。