2019/9/30(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:1-10 賛美 新聖歌 320
イエスは「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」と語られる。ぶどう栽培について記した文書を見ると農夫の働きは剪定、整枝、摘蕾、摘果、施肥等々、多忙である。父なる神は枝がいよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。枝が父なる神の手入れを受ける時には痛みを伴う。ヘブライ人への手紙の記者は「子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」(ヘブ 12:5)と記し、更に「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブ 12:12)と記している。ている。いかなる時にも神を信じ、忍耐をもって従おう。
2019/10/1(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:4 賛美 新聖歌317
冒頭から次の世代に語り伝えよと言われているその出来事がここに記されている。4種類のいなごが成長の4つの段階を示しているのか、次々に襲ってくるいなごの大群をその名称を変えながら伝えているのかについては断言できない。しかしこの未曽有の大災害によってもたらされる破壊がいかに徹底的なものであったかを知ることができる。もはや再生不可能と思われるほどの甚大な被害をもたらす災害を前にして、人々はどう振舞うのだろうか。そしてこれを語り伝えよと言われる神は、このような災害を超えてその深い意味、またその背後におられる神の働きに目を向けよと促される。
近年、私たちの生活の場においても様々な災害が起こる。かつては安全だと思われていた地域でももはやそのような保証はないことを人々は語り始めている。その中で、私たちは何に目を向け、何を信頼して歩むのだろうか。様々な状況を超えて私たちを導かれる神の御手に頼ろう。
2019/10/2(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:1-10 賛美 聖歌 501
イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と語っておられる。「まことの」と語られる以上、偽りのぶどうの木もいるわけである。偽メシアについてイエスは「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」(マコ 13:21-23)と警告しておられる。ヨハネもまた「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」(?ヨハ4:1)と警告している。ヨハネは真の霊と偽りの霊の判別について「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。」(?ヨハ4:2-3)と教えている。常に祈りをもって神と交わり、聖霊の光に導かれて真理の道を歩もう。
2019/10/3(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:5 賛美 新聖歌332
すべての作物を食い尽くすいなごの大群に襲われ、人々が呆然と立ち尽くすしかない状況においても、驚くべきことに平然と酔いつぶれている人々もいた。神はこれらの人々に目を覚まして現実に直面して嘆き、泣けと言われる。ほろ酔い気分で浮かれている人々も例外なく、この宴から目を覚まして襲い来る災いに向き合わなければならない。誰一人として、自分は安全なところにいると言って危機的状況から逃れ得る者はいないのである。なぜならいなごの大群という災害によって今彼らが口にしている酒も断たれるからである。
このいなごの大災害は偶然起こったものではない。神が送られたものである。そして神の裁きとしての災害はすべての人に及ぶ。その時に、これまで通りの酒に酔い、安穏と過ごしながら罪の中に歩み続ける生活に決別しなければならない。災いを通して神が人々を罪の生活の中から呼び覚まし、目を覚まして神の前に立てと促される。私たちはしっかり目を覚まして神の前に立っているだろうか。神の呼びかけを聞き分けているだろうか。今日、祈りの中で神の声を聞き分け、しっかり目を覚まして神と共に歩もう。
2019/10/4(金) 担当 高谷清師 詩 48:13-15 賛美 新聖歌 341
「大いなる主、限りなく賛美される主。わたしたちの神の都にある聖なる山は高く美しく、全地の喜び。北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される。」と、栄光の神が住まいを定められたエルサレムを詠った詩人は「後の代に語り伝えよ/この神は世々限りなくわたしたちの神/死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。」と詠ってこの詩篇を閉じる。イエスは「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(ルカ 12:4-5)と教えておられる。隆盛を極める世の権勢も権威も、それはこの世限りのものであって永遠を継ぐことはできない。パウロが「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(?コリ 15: 50)と記しているとおりである。死を越えて、わたしたちを導いて行かれるお方に従って行こう。
2019/10/5(土)担当 高谷由紀子師 マタ 5:3 賛美 新聖歌 389
マタイは5章から7章にイエスが語られた教えを記しています。そして5:3から12には「イエスが「幸い」について教えられたこを記しています。3節には「「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」と教えられています。「心の貧しい人々」とは、自分の内に何も頼りになるものが無い、誇りにするものが無い、空虚な心の人たちです。そのような人々が幸いであると言われているのです。それは「天の国はその人たちのものである」からです。心が豊かな人、満ち足りている人は神の言葉を受け入れません。受け入れる余地がないのです。しかし心の貧しい人、心の満たされないことを自覚している人は神の言葉を受け入れるからです。神の言葉を受け入れ、従う所に神の国は到来するのです