2019/10/13-18

2014/10/13 (月) 担当 高谷清師 ?コリ10:20 賛美 新聖歌 444
 パウロは「わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです」と語る。先にパウロは「知識を持っている」人々に対し「そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています(?コリ8: 4)」と語った。世の中に偶像の神などはないのであって、従って偶像を気にする必要はない。しかし、注意しなければならないのは、偶像を通して悪霊が働くということである。この悪霊は霊的存在であって私たちよりもイエスを知っているのである。かつて主が弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と言われたときぺトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのに対してイエスが「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と語られたことからわかるように、神が明らかにして下されなければ私たちはイエスを知ることが出来なかった。しかし悪霊はイエスに対し「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(ルカ 4:34)と語っている。偶像と係ることは、それを通して働く悪霊と係ることであり、それは神と敵対することである。しかも、悪霊は巧妙に聖徒を誘う。悪霊の働きに気を付けよう。それに勝利する道は常にキリストにつながっていることである。

2014/10/7(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下5:2-14  賛美 新聖歌415  
 ソロモンが王として大事業を成し遂げ、神殿が完成した。神殿内部の装飾に至るまで、当時の最高の技術と材料を用いて神のために建築された。しかし、どれほどの材と技術をつぎ込んでも、神の臨在がなければそれは豪華で巨大な建造物にすぎない。この建物が本当の意味で神の宮となるためには神がそこに住まわれなければならない。それ故に神殿が完成してまず初めになされるべきことは神の臨在をあらわす主の契約の箱を神殿に担ぎ上り、安置することであった。契約の箱は祭司たちによって運ばれ、至聖所に安置され、その場所で讃美が始まり、礼拝がささげられた。このとき、かつて完成した幕屋に主の栄光の雲が満ちたように(出エ40:34-38)、この神殿にも主の栄光が満ち、臨在が現された。
 神殿とは単なる壮麗な建造物ではなかった。神がそこに住まわれる場所であった。それゆえに人々は神殿で神に犠牲をささげ、讃美をささげたのである。今日の教会も単なる建物であってはならない。常に神の臨在があらわされる場所でなければならない。主との交わりの場所になるよう、日々祈り求めていこう。

2014/10/15 (水) 担当 高谷清師 ?コリ10:21  賛美 新聖歌 427
 続いてパウロは「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません」と語る。かつて、優秀な成績を上げる営業マンがいた。彼によるとジャイアンツファンのところに行くとジャイアンツを思いっきり褒め、他のチームをけなす。他のチームのファンの所に行くとそのチームを思いっきり褒め他のチームをけなす。こうして人の歓心を買う。これが営業成績を上げる秘訣・世渡り上手の秘訣であるという。これくらいは「たわいないもの」ですまされよう。しかし主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことの場合はそうはいかない。主の杯を飲むことはキリストの血にあずかることであり、悪霊の杯を飲むことは悪霊と一つになることである。悪霊と一つになる者はその身に滅びを招く。主もまた『「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタ 6:24)』と語っておられる。世における自らの保身を求めて曖昧な歩みをしてはならない。そのような歩みをする者を主は喜ばれない。毅然として主の食卓にのみ与る者となろう。

2014/10/16(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下6:1-14  賛美 新聖歌302  
 主の契約の箱の安置とそれに伴う賛美と犠牲に続いて、ソロモンが祈り始める。この祈りにおいてソロモンは最初にイスラエルの全会衆を祝福し、それに続いて神を賛美する。神はダビデに対して自ら約束を与え、それを成し遂げられた。主はエルサレムを選ばれた。主はダビデを選ばれた。ダビデの腰から出る息子が神殿を建てるということも実現された。主は約束なさったことを実現された(6:10)のである。神は忠実なお方である。神がダビデに与えられた約束を守り、実現された。ソロモンも神が真実であることを、これらのことを通して再び確信している。この神を知る時に、さらにソロモンは大胆に神に願い続けるのである。「今後もあなたの僕、父ダビデに約束なさったことを守り続けてください。」(6:16)と。
 私たちの日々の生活のなかに現される神の真実、忠実を私たちは見出しているだろうか。日常の何気ない事柄のなかに、神は真実な方としてご自身を現しておられる。しっかりと霊の目を開き、それらを受け取っていきたい。神が真実であられるがゆえに、わたしたちは慈しみ深い主に、さらに大胆に恵みを求めて歩んでいこう。

2014/10/17(金) 担当 高谷清師 ?コリ10:22  賛美 新聖歌 369
 パウロは「主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか」と語る。ここまで、事の重大性を深く認識せず、主の晩餐にあずかるとともに偶像の宮でも飲み食いする人々に対して語ってきた。しかしコリントには、ことの重大性を知っているにもかかわらず、主の晩餐にあずかるとともに偶像の宮でも飲み食いする人々がいた。そのような人々に対して警告しているのである。今日においても、罪を罪と認識しながら、それを行い続ける人々がいる。このような人々は神を侮る者であってその結果は重大である。聖書は「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです(ヘブ 10:26-27)」と語っている。私たちは罪を離れ、聖潔を求め、誠実に歩もう。

2014/10/18(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ14:66-72  新聖歌32
 ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(14:31)と強い信仰を告白していました。しかし主が裁判を受けられるに至って「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」(14:67)という女中の言葉に狼狽し、三度もイエスを否定してしまいました。これは主が予告された通りでした(14:30)。信仰告白をすべき時にペトロは簡単に主を否んでしまったのです。人間の決心のもろさを見る思いです。しかしそのあと、ペトロは本心を取り戻して、主を否んだ不信仰の罪を深く悔いました(14:72)。悔い改めることなく、すべてを自分の手で回復しようとしたユダ(マタイ27:3-5)とは違っていました。ペトロは悔い改めによってイエスの弟子であることを示し、信仰にとどまることができました(2コリント7:10)。
 私たちはペトロと同じもろさを持っています。しかし、罪を悟ったならば、私たちも悔い改めて主のもとに立ち返りましょう。”,,1125″