2013/9/23-28

 

2013/9/23(月) 担当高谷清師 ?コリ1:27-29 賛美 新聖歌237・聖歌427
 この世の「知恵ある者」「力ある者」「地位のある者」これらの者たちは総じて傲慢になりやすく、他者を見下げると言う誤りに陥りやすい。それ故、神は「知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた」のだと言う。「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」というのである。
 この御言葉を読んで「世の無学な者」「無力な者」「無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者」は自分たちこそ神に選ばれているものだと思って「知恵ある者」「力ある者」「地位のある者」を軽んじるべきではない。わたしたちは常に謙遜をもって歩み、目上の人々に正当な敬意を払うことを忘れてはならない。敬意を払うべきであるが、へつらってはならない。下心ある者はへつらい、目上にある愚かな者はそれを喜び、へつらう者を優遇する。しかしそれは裁きの日には耐え得ない。常に御前に真実の謙遜をもって歩もう。

 

2013/9/24(火)担当 ラウジー満世師 列王記下4:8-37 賛美 新聖歌302 聖歌487
 ここでは一人の信仰深い女性が登場する。シュネムの裕福な女性はあるときエリシャを引きとめ、食事をふるまったことからエリシャが神の人であることを知り、見返りを求めずにエリシャを支えた。彼女に子どもが与えられ、そしてその子の命が取り去られた。彼女が求めてもいないのに与えられたものを取り去られたとき、どうして望みもしない苦しみを与えるのかと訴えた気持ちはもっともである。エリシャはまず従者のゲハジを遣わすが、それは失敗に終わる。エリシャが死んだ子のもとを訪れて神に祈ったとき、その祈りは聞き入れられ、子が生き返るという奇跡がなされた。
 この女性は子どもの死と生き返りを通して具体的に神の力と救済とを体験した。神は生きて働かれるお方である。御心にかなうならば、求めるものを具体的に与えることのできる神である。

 

2013/9/25 (水) 担当 高谷清師 ?コリ1:30-31 賛美 新聖歌317・聖歌493
 この箇所においてパウロは「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ」と語っている。さらにロマ書においては『その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした(ロマ 9:11-12)』と語っている。主もまた「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである(ヨハ 15:16)」と語っておられる。長い信仰の旅路においては、サタンの支配下にある世を歩むキリスト者と世との軋轢、不信の家族との問題、さらに教会における人間関係に関する悩み等々の嵐が吹き荒れ、主につながり続けることに困難を覚えることがある。そのような時、私たちがキリストに結ばれているのは神によるのであり、かけがえのない恵みであることを思い起こそう。

 

2013/9/26(木)担当 ラウジー満世師 列王記下4:38-44 賛美 新聖歌345 聖歌597
 ここには食べることのできない鍋の中の煮物が食べられるように変えられたこと、また一人の男が持ってきた大麦パン二十個がそこにいた人々に分け与えられたこと、そしてこれらを通して人々が満腹になるほどの食物が与えられたことが記されている。大麦パンの出来事は福音書で語られる四千人、五千人が食べて満足した奇跡を思い起こさせる。
 ここでエリシャの時代になされた奇跡は預言者の仲間たちが集まっているところであらわされた。すでに神を信じ、従っている人々の間で示されたのである。このことを通して彼らはエリシャがエリヤの後継者として神に選ばれた者であることを再確認しただろう。それに加えて、これらの奇跡は神に従い、仕える預言者たちの信仰を強めることにもなったのである。
 長い間信仰を持っている人も、また長い間主の奉仕をしている人々も、同様に日々の生活の中で神の力を体験し、信仰を養い、成長させていただくことが必要である。日々飢え渇いて御言葉を読み、神の力を体験したい。そのことをなしてくださる神に祈り求めよう。

 

2013/9/27(金) 担当高谷清師 ?コリ1:30-31  賛美 新聖歌427・聖歌520
 続いてパウロは「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵とな」られたと述べている。神がキリストにおいて成し遂げられた、この世には愚かと見える救いの御業、罪なき神の御子が十字架に架かり、血を流し、命を捨てられることによって私たちを罪から解放する御業こそ神の知恵である。この世の指揮者、論者、哲学者、宗教家・・・・・は世の知恵を説く。しかしそれは神によって愚かとされた。キリストだけが神の知恵となられたお方である。即ち、キリストだけが唯一の救い主である。

 

2013/9/14(土)担当 高谷由紀子師 マルコ 16:9-11 賛美 新聖歌127・聖歌172
 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。それに対して弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えた。世の人々は主イエスを偉大な宗教家、預言者、また尊敬すべき教師、指導者と認めていました。主が「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねられた時ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。これに対して主は「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われました。世の人々の目にはイエスは偉大な宗教家、預言者、また尊敬すべき教師、指導者と見えました。しかし主はそれ以上のお方、「メシア、生ける神の子」でした。それは神の啓示によってのみ、認識されるのです。聖書は「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです(?コリ12:3b)」と語っています。
私たちがイエスを救い主と認めることができるのは聖霊によってのみ可能なのであり、伝道もまた聖霊に依らなければ不可能です。常に聖霊に満たされて仕える者となりましょう。