2013/9/30-10/5

 

2013/9/30(月) 担当高谷清師 ?コリ1: 30-31 賛美 新聖歌427・聖歌520
 次にパウロは、「キリストは私たちにとって義となられたと」語る。更にパウロは?コリント書において「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです?コリント5:21)」と述べ、エフェソ書において「キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義がありますフィリピ3:9)」と述べている。罪のない神のみ子であるキリストが神のみ旨に従って私たちの罪を負い、罪となって十字架に死ぬことによって私たちの義となってくださったのである。私たちは罪ある、弱き者であるが、キリストを救い主と信じる時、キリストの義が信じる者の上に転嫁され、その人は神に義とされるのである。この恵みに感謝するとともに、常に信仰によって歩もう。

 

2013/10/1(火)担当 ラウジー満世師 列王記下5:1-14 賛美578 新聖歌392 聖歌578
 アラムの将軍、ナアマンの病が癒されたというよく知られた話である。ナアマンはイスラエルとしばしば敵対関係になり、戦争にまで到った隣国の人、異邦人であった。しかも彼はそのアラム軍の司令官であり、重用されていた人であった。彼が重い皮膚上にかかり、地位も名誉も失いかねない状況になった。そのとき、彼が主に癒され、救われるきっかけとなったのはひとりの少女であった。彼女はイスラエルから捕虜として連行され、奴隷としてナアマンの妻に仕えていた、取るに足らない存在であった。この少女が、ナアマンがサマリアの預言者の所に行くならば癒されると証をしたことによってナアマンが最終的に癒されたのである。
 列王記下五章の中でこの少女については彼女の言葉だけが短い節を割いて伝えられるだけである。しかし彼女は異邦の地の奴隷という厳しい状況にあっても、真の神への信仰を保ち、そして主人が病に侵されていると知って短い言葉で証をした。その証が用いられ、ナアマンの癒しと救いが成就した。
 私たちも取るに足らない存在かもしれない。厳しい状況にいるかも知れない。しかし、おかれた場所で忠実に神を信じ、自分のできる範囲で証するなら、それを主が用いてくださる。

 

2013/10/2 (水) 担当高谷清師 ?コリ1:30-31 賛美 新聖歌372・聖歌553
 次いでパウロは「キリストは私たちにとって聖となられた」と言う。これについてカルヴァンは『パウロは、キリストを聖であると言う。ここでかれは、キリストいまさずば、わたしたちは生れながらに汚れた者であり、キリストの御霊によってこそわたしたちは、聖なる者と生れかわり、神に仕える者とされるのである」と言おうとしている。この点から、わたしたちはまた、わたしたちがただ信仰によって無償で義とされておりながら、依然として聖なる生活を送らないでいるはずはないと教えられる。というのは、この二つの恵みは、それぞれ分けることのできないきずなによって結び合わされているからである。それゆえ,それらを分けようとする者は、いわばイエス・キリストの肢体を分断しようとするような者である。だから,キリストによって義とされること、 (しかも,神の無償の御好意によってそうされること)をねがう者は、同時に、聖化においてこのことを理解することなしに、つまり、キリストの御霊によって無垢な、清らかな生命に生れかわることなしに、このことは果されないことを肝に銘じておくべきである。とすれば、わたしたちのことを、信仰による無償の義認を説くことによって、人々が善業を行おうとするのをさまたげる者であるかのように非難するやからは、この一節、すなわち「信仰は、罪のゆるしとともにキリストにおける新生をも心にかけるものである」と言われているこの一節によって、完全にしりぞけられることになる。』(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P54)。これは「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうかロマ 6:1)」という議論に終止符を打つ。

 

2013/10/3)担当ラウジー満世師 列王記下5:1-14 賛美 新聖歌251 聖歌475
 ナアマンからサマリアの預言者について聞いたアラムの王はイスラエルの王に手紙を書き、ナアマンの病を癒してほしいと申し入れた。イスラエルの王はそれを聞いたときに自分にそのようなことはできないことを知っていながらアラムの王が無理難題をふっかけてイスラエルを陥れようとしていると考えた。神の民イスラエルの王でありながら、癒し主である神を忘れ、預言者の存在を忘れて慌てふためく王の姿は滑稽でさえある。
 イスラエルの王はこの手紙を読んで「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか」(7節)と叫ぶが、図らずもこの言葉を読むときにわたしたちはイスラエルの王が忘れ去っていたまことの神を思い起こす。人を生かし、また殺す方はまことの神である。イスラエルの王はこのことに思い至らなかった。ともすればわたしたちも信仰者でありながら、全能の神が居られることを忘れてしまっていることはないだろうか。主を信じること、それはいかなるときでも神に全幅の信頼を寄せ、願い求めて神の前に出ることである。

 

2013/10/4(金) 担当高谷清師 ?コリ1:30-31  賛美 新聖歌264・聖歌463
 ついでパウロは「キリストは私たちにとって贖いとなられた」と言う。コロサイ書には「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのですコロサイ1:14)」と述べられており、ロマ書には「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのですローマ3:24)」と語られている。さらにロマ書には「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます(ローマ 8: 23)」と記されている。
 御子イエスの十字架の御業を信じる信仰によって私たちは罪赦され、救われ、神の子とされ、神の祝福に入れられている。しかし、肉をもって、サタンの支配する世を歩む私たちは多くの試練と苦難に遭遇する。そのような中で、心の中でうめきながら体の贖われることを待ち望んでいるのである。それは主が再び来たり給う日に成就する。苦難の中にあっても、信仰をもって確かな歩みを続けよう。

 

2013/10/5(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 9:57-62 賛美 新聖歌404・聖歌433
 この箇所には主に従おうとした三人の人について記されています。最初の人はイエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。この人に対してイエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と答えられた。第二の人はイエスの方から「わたしに従いなさい」と語りかけられた。それに対して彼は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。その人に対して主は「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と教えられた。第三の人は「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言った。彼に対して主は「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。これらの主の言葉から、主に従おうとする者は、尋常ではない苦難、困難に耐える覚悟が必要なこと、世の義務に仕える事が死の業であるのに対し神の国を言い広めることは命の業であり、それは死の業に勝ること、世との関係を断ち切って神にのみ仕える決断の必要なことを語っておられるのです。