2015/5/25-30

2015/5/25 (月) 担当 高谷清師  ?コリ15:33-34  賛美 新聖歌 344
 ここでパウロは『思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです』と警告する。復活を否定する人々との交わりは、キリストとの交わり、クリスチャン生活を破壊すると警告する。そして「正気になって身を正しなさい」と勧告する。それは「神について何も知らない人がいるから」である。コリント教会のある人々は「知識を持っている」と主張していた。それについてパウロは「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです(?コリ8:2)」と戒めている。またパウロはイスラエルについて述べた箇所において「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません(ロマ10: 2)」と語っている。御言葉に謙虚に耳を傾け、御言葉の真理に立つことを追い求めることなく、ただ熱心であることは信仰の破船を招くことに注意しなければならない。

2015/5/26(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下34:8-21  賛美 新聖歌 266
 神殿の修理の最中に律法の書が発見された。それを受けて最初にヨシヤ王は、この見つかった書の言葉が本当に主のみ旨であるかどうかを確かめた。これは少々神経質に見えるかもしれない。神に忠実な王が始めた神殿の修復工事の時に、神殿から見つかったのだから、それを主の御旨として受け取ることもできたように思うが、王はその言葉が本当に神のことばであるか確認を取っている。ヨシヤ王は不信仰だったのだろうか。しかしここでは王が神のことばの真偽を確認するという行為が非難されてはおらず、正しい行為として受け止められている。
 神のことばの真正性を私たちはどう考えるだろうか。もちろん今日私たちが手にする聖書は長い教会の歴史の中で世代を超えて受け継がれ、それを通して神が語り続けてこられた言葉であるから、それを疑う必要はない。一方で多くの預言が語られ、それらに惑わされることがある。その時、『本当にこの言葉は神から出たものか否か』と問い、確認しなければならない。それは聖書の言葉に照らして吟味され、また霊を識別する知恵と賜物によってなされる。盲目的に従うのではなく、しっかり神から出たものであると確認しつつ歩もう。

2015/5/27(水) 担当 高谷清師 ?コリ15:35-41  賛美 新聖歌 466
 復活の事実について語ったパウロに「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」と問いかけてくる反対者の質問を「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」と退け、植物の例をもって教える。
種は死を経て新しい体を持つのである。主イエスも、復活を否定していたサドカイ人が「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」と質問したのに対して「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。(マタ 22:29-30)」と答え、霊の体による復活を示しておられる。

2015/5/28(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下35:1-19  賛美 新聖歌165  
 いよいよ主の過越祭が行われる。この箇所では何度もこの祭りの手順が書に記されているとおりに行われたことが強調される。ヨシヤの時代の祭は時期も場所も正しく行われている。さらに35:18にはこのような律法の書に従った祭りは預言者サムエルの時代以来行われてこなかったと記されている。ではヒゼキヤの時代に行われた過越祭はどうだったのかと問いたくなる。あの時には諸事情により祭の時期をずらさねばならないという変則的なことが起こった。ここでは律法の書に従って、正しい手順で祭を行うことが驚くほど重視されている。これはヨシヤが保守的な人物であり、変化を恐れたためではなかった。ヨシヤは実際に当時社会にあふれていた偶像を排除するなどの改革を行ったのだから、彼が変化を恐れ、現状維持したいと考えたのではないことがはっきりわかる。ヨシヤが伝統的な祭りにこだわったのは単なる懐古趣味や変化に対する恐怖によるものではなく、神のことばに対して忠実であることを重視したからである。変えるべきものと変えてはならないことをわきまえたうえでヨシヤはこの祭りを行った。
 今日の信仰生活や教会においても保守と革新は常に課題になる。何を変えなければならないのか、何を変えてはいけないのか、神のみ言葉を基準にしっかりと見極め、正しく神に仕えていきたい。

2015/5/29(金) 担当 高谷清師  ?コリ15: 35-44  賛美 新聖歌 467
 パウロは「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」と語る。私たちが今与えられている体は、朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの、であって、それ故、悲しみと苦しみを伴っている。しかしその日には、朽ちないもの、輝かしいもの、力強いもの―霊の体―に復活するのである。ここに私たちの希望がある。

2015/5/30(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 7:24-30 賛美 新聖歌 343
 シリア・フェニキアの生まれの女は異邦人であり、神の約束から遠く離れたものであった。主はこの異邦人の女に対して最初は「子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と答え、ユダヤの優先性を確言された。しかし女は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と言ってユダヤ人の優先性を認めながらもなお、異邦人にも心を留めてほしいと熱心に求めた。主はこの女の信仰に応えて娘を悪霊から解放された。キリストによってあらわされた神の恵みは、ユダヤ人に限られることなく、全世界に及ぶのです。”,,882″