2013/10/21−26

 013/10/21(月) 担当 高谷清師 ?コリ2:6-9 賛美 聖歌196

 「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」と述べる。「成熟した人」についてパウロはエフェソ書において「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです(エフェソ4:13)」と語っている。家庭に子供が与えられたなら、それは大きな喜びである。しかしその子供が時間を経ても生まれたつきのままであるなら、それは家庭にとって大きな心配の種となる。生まれた子供は成長が求められている。同じように、主を信じて救われ、神の国の民として生まれた人は成長し、成熟することが求められる。それは聖霊の導きの内に、御言葉と祈りと教会の交わりによって成し遂げられる。主の重荷を共にになうことができる成熟した者となろう。
 
2013/10/22(火)担当 ラウジー満世師 列王記下6:1-7 賛美 新聖歌356 聖歌595
 エリシャが預言者の仲間と共に住んでいる場所が手狭になったので、新しい家を作ることになった。そのために彼らはヨルダンで木を切り出さねばならなかった。エリシャはこのとき預言者の仲間に乞われて共に出かけていくことになった。
 木を切り倒す作業中に、一人が借り物の斧を水の中に落として失ってしまうというアクシデントに見舞われた。当時、鉄は非常に貴重で高価なものであった。その貴重な斧を他人から借りていたにもかかわらず、彼はなくしてしまった。困ったこの人はエリシャに助けを求めた。エリシャが落とした場所に木を投げると、鉄の斧が浮かびあがった。重い鉄が浮かび上がることなどあるわけがない。しかし神が出来事に介入されるときに、文字通り自然の法則に反したこともなされるのである。
 全能の神は御心にかなうならばありえないことも起こされ、苦しみ、悩む者を助けてくださる。神に助けを求めつつ、歩もう。
 

2013/10/23 (水) 担当 高谷清師 ?コリ2:6-9 賛美 新聖歌391・聖歌541「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」と述べた「知恵」について語る。その「知恵」は「この世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵」でもない。パウロは先に「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。(?コリ1:20-21)」と語った。この世の知恵は、それがいかに優れたと思われるものであっても、滅びゆくものである。異教の地、日本において信仰生活を送り、宣教活動を行う私たちはこの日本の宗教、文化を知ることが大切であると言う論を見聞きする。それには全く同感である。しかし、そのような論述においてしばしば異教の経典と聖書を同列に置こうとするような場面に遭遇することがある。しかしパウロが「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です(?テモ3:16)」と述べているように、聖書は神の霊の導きの下に書かれた神の言葉であり、この世のいかなる書物も聖書に比肩することはできないことを知らなければならない。

 
2013/10/24)担当 ラウジー満世師 列王記下6:8-23 賛美 新聖歌341 聖歌591
 アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、戦況がすべてイスラエルに知られていたので、自分の家臣の中にスパイがいて情報を漏らしているのではないかと疑った。家臣からイスラエルの預言者エリシャがすべてを見通していると聞いたときに、この王はエリシャを監視するために人を送った。
 この箇所では「見る」、「目を開く」という言葉が何度も使われる。アラムの王は戦いの指揮権は自分にあると信じて状況を見極めようとしたが、送られた人々は主によって目をくらまされ、サマリアへ連行された。また、アラムの軍隊を見て恐れていたイスラエルの民については、主が目を開いて敵よりも多くの主の軍勢を見せられた。アラムの王は人間の指揮官として、当然の方法で戦いを有利に進めようとした。そして、状況を見極め、主導権を逃すまいとした。しかし、全体を見渡し、見極め、知ってすべてに対して主権を持っておられるのはアラムの王ではなく、イスラエルの神であった。
 わたしたちも日々刻々と変わる状況の中で生きている。いつも状況を見極め、対処する。しかし本当にわたしたちの目を開き、見極めさせ、最善へと導かれる、主導権を持つお方は主なる神ただ一人である。
 

2013/10/25(金) 担当 高谷清師 ?コリ2:6-9  賛美 新聖歌282・聖歌539 キリスト者の語る知恵とは「隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもの」・十字架の贖いの御業である。それは「世界の始まる前から定めておられたもの」であり、「神がわたしたちに栄光を与えるため」のものであった。即ち、罪を犯して滅ぶるほかなかった私たちの罪を取り除き、神の子として神のすべての祝福に与からせるものである。それは世からは隠されているが、霊の人には啓示されている神の知恵であり、この知恵は思索によっても、修行によっても知ることはできない。それは信仰によってだけ知ることができるである。パウロが「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです(ロマ 1:17)」と述べているとおりである。今日も信仰によって歩もう。

 
2013/10/26(土)担当 高谷由紀子師 マコ 9:33-37 賛美 新聖歌355・聖歌588
 主イエスはご自身が十字架につけられる時が近づいていることをご存知だった。こんなときに弟子たちは自分の出世のことや、だれが一番偉いかなどを論じ合っていた。彼らは主のことよりも自分自身の地位や名誉のことを気にかけていた。しかし主は本当の偉大さや人の価値はすべての人に仕える「しもべ」となる志の中にあることを教えられた。これは世の価値観や出世の常識とは全く反対である。主は仕えられるためにではなく仕えるために来られたのである(10:45)。主は子どもを抱き上げて謙遜の意味を教えられた。当時子どもは大切にされない、低く評価される存在であった。社会で軽視される人を受け入れることは常識では世の成功に結び付かない。しかし主は子どもを受け入れる人こそご自分と神を受け入れる者であると語られ、これによって天の御国に入る資格を示された。
 私たちは十字架を負われた主のあとに従い、隣人に仕えよう。