2013/10/14-19

 

2013/10/14(月) 担当高谷清師 ?コリ2:3-5 賛美 新聖歌433・讃美歌217
 先述のように、パウロがコリントに御言葉を伝えたのは「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安」な時であった。それ故、「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした」と述べている。「知恵にあふれた言葉によらず」と記されている所をカルヴァンは「人間的な知恵の魅力的な言葉によらないで」(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P57)と訳している。そして「間的な知恵の魅力的な言葉というのは真実よりもむしろ技巧の助けをかりそれによって戦いを進めようとする、きれいごとの、巧妙な話術のことでありまた、人々の精神をひきつける、微妙をきわめた外観のことであるかれが、説得によってひきつける方法を人間的な知恵に属するとしたのは正しいことであったというのは,主の御言葉は,その御戚光によってあたかも強い力をもってするごとくわたしたちを否応なく服従させるものだからであるしかし人聞の知恵は誘惑するものでありこっそりと、おだやかに忍びこみ、さまざまの術策を弄してそそのかし聞く人の心を魅惑するのであるそれは霊と証明とは相反するものである。」(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P59)と述べている。
 私たちの伝道は自分の力と技巧ではなく聖霊の力によるのである。常に上よりの力を求め、満たされて伝えよう。

 

2013/10/15(火)担当 ラウジー満世師 列王記下5:19後半-27 賛美新聖歌388 聖歌338
 ナアマンは癒され、まことの神を信じてエリシャの元から自分の国へと帰っていった。その際、エリシャはナアマンが持参したものを一切受け取らなかった。一方エリシャの従者ゲハジはこれを惜しんで、ナアマンの後を追い、うそを語って贈り物の一部を手に入れた。ゲハジはナアマンを追うときに、神に誓いのことばまで述べている(20)。エリシャが16節で述べた誓いの言葉と真っ向から対立する誓いであった。神はどちらの言葉を聞かれるのだろうか。
 神が聞かれたのはエリシャの言葉であり、ナアマンの癒しは取り去られることはなかった。ナアマンが異邦人で、ゲハジがイスラエルの民だから、神はゲハジを省みられるということはなさらなかった。出身地、民族にかかわらず、悔い改めて砕かれた心でへりくだって神を受け入れ、従う者を主はかえりみられるのである。今日わたしたちはどのような心をもって主に仕えているだろうか。

 

2013/10/16 (水) 担当 高谷清師 ?コリ2:3-5 賛美 新聖歌391・聖歌541
「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした」と述べている事について更に一点、留意したい。パウロがコリントにやって来た時、パウロは「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安」であった。度重なる試練によって自信を喪失し、人間的には宣教どころではなかった。そのようなパウロを神は御手に収め、聖霊に満たし、御自身の力を注いで用いられたのである。後にパウロは自分に与えられたとげについて述べている。このとげを離れ去らせてくださるよう主に願ったパウロに主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(?コリ 12: 9)と答えておられる。それに対しパウロは「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(?コリ 12: 9)と述べている。
すべてを主はご存じである。自分の弱さをも含め、一切を主に委ね、主の霊と御力に満たしていただき、主にお仕えしょう。

 

2013/10/17(木)担当 ラウジー満世師 列王記下5:19後半-27 賛美新聖歌302 聖歌487
 ゲハジは帰途に着いていたナアマンに追いつき、うそで言いくるめてナアマンから銀二キカルと着替えの服二着を手に入れた。それをエリシャには報告せず、自分のもとにしまいこみ、隠した。自分の企てがうまくいき、手に入れたいものを獲得したと喜んでいた。ここには神に対する畏れもなく、主人であるエリシャを裏切ったという罪意識もなかった。結局、ゲハジが隠れて行った罪は発覚する。どれほどうまく隠したと思っても、罪は知られている。そして、罪に対する罰は受けなければならないのである。悔い改めのないところにまた赦しもない。エリシャがゲハジに「どこに行っていたのか」と尋ねて悔い改めの機会を提供したときに罪を悔い改めていれば結果は違っていたかもしれない。最終的にかつてナアマンが苦しんでいた皮膚病に、ゲハジが苦しむことになった。
 人は生まれた環境や場所や血筋によって救いが保障されているのではない。神と共に歩む生涯において、常に神を畏れ、罪から離れ、罪を犯してしまったならば悔い改めて神の前に出ることによって日々主と共に歩めるのである。

 

2013/10/18(金) 担当 高谷清師 ?コリ2:3-5  賛美 新聖歌281・聖歌538
 パウロの宣教が「知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によ」ったのは「あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるため」であった。この箇所をカルヴァンは「それは,あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P57)」と訳している。
 私たちの信仰が人間の知恵に基づくものであるなら、もっと聡明な知恵が現れる時崩壊するほかないのである。しかし神の力に依っているなら、いかなる時にも崩れ去ることはない。並はずれた騒音と短い言葉を繰り返す「賛美」によって醸し出された人為的興奮状態の中で強要する「信仰の決心」をやめようではないか。「信仰の決心」、それはペヌエルにおけるヤコブの経験のように、唯一人で神の前に進み出て、神のお取り扱いの中で導かれるものである。それは人を根底から造り変え、如何なる試練にも耐えさせる。

 

2013/10/5(土)担当 高谷由紀子師 マコ 5:18-20 賛美 新聖歌264・聖歌463
 イエスは悪霊に取りつかれた人を解放された。彼はイエスと一緒に行きたいと願ったが、イエスはそれを許さず「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。(19節)」と言われた。主の御業によって解放され、救われたこの人が証しをするように、主はこの人を日々の生活と社会の中へと戻された。主はこの人が家庭の中で神の恵みと憐れみを示すことを望まれたのである。この男は帰って行って主がしてくださったことを証ししたので、多くの人々が主を知るようになり、主の御業について聞いた人々は皆驚いた。キリスト者にとって自分の家庭が証しの場である。ここに真の弟子の生活がある。