2014/8/18-23

2014/8/18 (月) 担当 高谷清師 ?コリ9:15-18 賛美 新聖歌 260
 ここでパウロは「わたしの報酬とは何でしょうか」と問う。そしてそれは「無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです」と言う。福音を宣べ伝える者に対して、主が受けてもよいとされた報酬を受けずに福音を宣べ伝えたことである。彼がそうしたのは彼に受ける権利がなかったからではなく、福音の歩みの障害にならないためであった。この箇所についてカルヴァンは「わたしは、どうしでも福音を宣ベ伝えなければならないのだ。もしそうしないなら、わたしは、わざわいである。それは、神の召しにそむくことになる。しかし、心から進んでそれをするのでなければ、ただ福音を宣べ伝えるだけでは十分ではない。神から受けた任務・委託をいやいや実行している者は、しかるべくつとめを果しているとはいえない。もしわたしが、進んで神に従うならば、それはわたしの誇りになる。だから、わたしは、りっぱに誇ることができるように、無代価で福音を宜ベ伝えなければならなかったのだ(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P213新教出版社)」と言っている。私たちが神への奉仕にあずかるときにはいつもこのようであるべきである。その源泉は私たちに与えられた神の絶対恩寵―受ける資格のなかったものに与えられた十字架の贖いの恵みである。いつも救いの原点、十字架を仰ぎ見よう。

2014/8/19(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上23:1-32  賛美 新聖歌303  
 ダビデがソロモンの治世のために準備したのは神殿建築だけではなかった。それとともに神殿において行われる祭儀のために必要な組織をも整えた。23:3にはダビデがレビ人を数えたと記されている。先に問題になった人口調査ではレビ人の調査は除外されたが、それはレビ人が戦いに加わることがなく、神殿奉仕に当たる者達であったからである。ここでは、まさにそのレビ人の神殿での奉仕のためという正しい目的のために人口調査が行われている。23章全体にわたって詳細にレビ人の務めが記されている。この中では時代と状況に応じてレビ人の務めの内容が変化している。彼らの務めの目的は主の神殿の奉仕を職務とするためであるという点については明確である。そして、レビ人は祭司と役割を分担しつつ互いに補い合いながら働きを進めていく。
 神殿の働き、礼拝が正しく行われるための務めは多岐にわたり、大変複雑なものである。その働きが正しく行われるように、事前に準備が整えられ、時代と状況に合わせてその働きも整備されていく。礼拝をささげるという、いつも行われることも陰にいる人々の常に細かな配慮と準備によって支えられている。奉仕者のために祈ろう。

2014/8/20 (水) 担当 高谷清師 ?コリ9:19-23 賛美 新聖歌 399
 パウロは「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」と述べる。この自由についてパウロは、ガラテヤ書において「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません(ガラ 5:1)」と語っている。今、私たちが与えられている自由は、かけがいのない、尊い御子の血潮によって与えられたものであって、私たちはそれを全身全霊をもって尊び、守っていかなければならないのでる。一時の現世利得や肉の欲のために放棄してはならない。

2014/8/21(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上24:1-31  賛美 新聖歌392  
 ここでも神殿で奉仕する者達について語られ続ける。レビ人に続いてアロン系祭司について語られる。アロンの四人の子らの名前が一節に記されている。私たちがレビ記10:1-2と民数記3:4から知っているとおり、ナダブとアビブは規定に反した炭火を主の御前にささげたために普通ではない死を迎えたが、歴代誌はその詳細には触れず、二人が子孫を残さなかったことだけが報告されている。残二人の子らについても、子孫の数は両家系の間でかなり開きがあるが、それが働きの違いにつながってはいない。
 レビ人を組織したとき(23章)各組を働きに任命したのはダビデであった。しかし、祭司の場合はダビデが任命しているのではなく、神の御心に従う。そのために神の意志を決定するためのくじが用いられる。神殿での奉仕をするレビ人と祭司はしばしば何が異なるのかと私たちに混乱と疑問をもたらす。しかし、この詳細にわたる神殿礼拝のための準備の中で、しっかりとそれらは整理され、組織立てられている。そして聖なる務めの中心にあるのは神の意志であり、導きである。人がささげる礼拝も神に導かれていることを覚えよう。

2014/8/22(金) 担当 高谷清師 ?コリ9:3-14  賛美 新聖歌 394
 キリストによって与えられている自由の尊さと大切さを語ったパウロであったが、「すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」と語って、伝道のためにはそれさえも献げたことを語る。主イエスも神殿税について、自らは納める必要のないことを明らかにした後、「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい(マタ 17:27)」と語っておられる。また主が洗礼を受けようとして来られた時、それを思いとどまらせようとするヨハネに対して「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです(マタ 3:15)」と言って洗礼を受けられたのである。キリストにあって私たちに与えられている自由と権利は尊く、何者によっても侵されることはない。しかし福音の前進のためには自ら自制すべきである。

2014/8/16(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ7:24-30 新聖歌302
 フェニキアの女は異邦人であり、神の恵みの約束の外に生きる者であった。この女が汚れた霊にとりつかれた娘を癒してもらうために主イエスのところにやってきた。主は異邦人の女に対して最初は「子供たちのパンをとって小犬にやってはいけない」と答え、ユダヤ人が優先であると確言された。ところが女はユダヤ人が優先されることは認めるが異邦人にも心をとめてほしいと熱心に求めた(28節)。主イエスは女の信仰に応えて娘を悪霊から解放された(29,30節)。契約によってユダヤ人に限定されていた神の恵みは、イエス・キリストによって全世界の人々に及ぼされたのである。”,,1293″