2021/11/22-27

 2021/11/22(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ 1:3-7 賛美 新聖歌 264

 パウロは「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。」と語る。この愛は神への愛と隣人への愛を含んでいる。ヨハネが「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(Ⅰヨハ 4:8)と述べているように、愛は神に属するものであり、人間の内には存在しない。人は神からの愛を受けてそれによって神と人を愛することが出来るのである。そのためには第一に「清い心」が求められる。宮平望師は

「心が清いとは、心に悪意、殺意、姦淫、窃盗、偽証、冒漬といった汚れた思いがなく(マタ15:19cf.ロマ1:293I)、神に対する疑いや不信仰もなく(へプ10:22)、正義と信仰と愛と平和を求めることである(テモ二2:22cf.詩編24:3-673:1,ロマ14:17) 。」(テサロニケ人・テモテ・テトス・フイレモンへの手紙 私訳と解説P138新教出版社2014

と述べておられる。十字架を仰ぎ、御子の血潮によって清められた「清い心」に立って歩もう。

 

2021/11/23(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書9:1-4 賛美 新聖歌399

 イスラエルの北に位置する国々が攻撃を受け、その町が焼き尽くされようとしている。この地域に差し迫り、今起こりつつある惨事を目の当たりにしながら、人々が目を向けるのは主である。イスラエル以外の人々も主の力を認めてイスラエルと共に主を見上げる。この事実と共に、1節にあるように、この破壊されつつある地には主の言葉が臨んだと言われる。つまり、北の国々とペリシテの地は主のさばきを受けてこのような破壊に直面しているのである。これらの国々は自分の知恵を誇り、自力で築いた砦を頼みとしてきた。そして金銀をかき集めてきた。富を蓄え力を蓄えた国々であった。

 自分の力を誇り、あぐらをかく国々を神は裁かれる。どれほど人間が権力を振りかざしたところで、それは神の力には及ばない。真の神を認めて受け入れることを拒むところに平和はない。地のすべての人々が神を見上げ、神を認めるよう祈り続けよう。

 

2021/11/24(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ 1:3-7 新賛美 新聖歌 390

 神からの愛を受けてそれによって神と人を愛することが出来る。そのために求められる第二のものは「正しい良心」である。「正しい良心」について宮平望師は

「良心(スネイデーシス)」とは、他の誰かと「共に(スン)」「見る、知る(エイドー)」 ことであり、そうすることによっても恥じることのない思いである(テモ一1:193:9,テモ二1:3cf.ロマ2:159:113:5,ベトー3:1621 )。キリスト者の場合、他の誰かとは神であり、キリストである。」(テサロニケ人・テモテ・テトス・フイレモンへの手紙 私訳と解説P138139教出版社2014

と述べておられる。聖書は「しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サム上 16:7)と述べている。心を見られる主の前に恥じることのない「正しい良心」をもって歩もう。

 

2021/11/25(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書9:5-8 賛美 新聖歌302

 ティルスの陥落に続いてガザ、アシュケロン、アシュドドというペリシテの町々が重大な危機に直面する。これらの町々は破壊されて荒廃する。徹底的に破壊される様子はすべての楽観主義を砕き、先の希望を取り去る。しかしこのペリシテ人に対しても驚くことに神が彼らの高ぶりを絶つと言われる(9:7)。かたくなに神を侮り続け、イスラエルと対立し続けてきた者であっても神はその心から高ぶりを絶ってくださる。そして神はご自分の民イスラエルのために見張りとなり、将来的に敵から守ってくださるという。

 9:1-8についてはある人は歴史的出来事に基づいて述べられた預言であると考え、ある人はそれを否定する。いずれにしても神は希望がないというほどに破壊されたエルサレムとイスラエルの民の守りとなってくださる。そのイスラエルの救いは敵対して神を認めない人々へのさばきと表裏一体であるが、同時に御心により、高ぶるペリシテの心をも神が造り変えてくださることが出来る。すべての人の心を神が造り変え、すべての人々が神を見出すことが出来るように祈ろう。

 

2021/11/26(金) 担当 高谷清師 詩 65:2-5  賛美 新聖歌 236

 詩人は「沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。」と詠う。ヨブは人間的な視点に立つとき、理不尽な苦難に遭遇した。彼を見舞うためにやって来た友人たちとの議論においてヨブは頑なに自分の義を主張した。ヨブと友人たちの議論が果てしなく平行線をたどる中、主は嵐の中からヨブにお語りになった。「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。」(ヨブ40:2)と。その時、ヨブは「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。」(ヨブ40:4)と言って沈黙した。詩編62篇の詩人は「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」(詩 62:2)と詠っている。神は全知全能にして創造者であり、愛なるお方である。沈黙と讃美は真の礼拝者の姿である。

 

2021/11/27(土) 担当 高谷清師 黙3:20 賛美 新聖歌 281                                                                                    

 主は「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と語られる。イスラエルの民が荒野において罪を犯した時、神は彼らに向って炎の蛇を送られ、その蛇にかまれて多くの人々が死んだ。民が悔い改めた時、神はモーセに「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」(民21:8)と語られ、モーセが青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げるとそれを仰いだ人々は死を免れた。(21:4-9)

 イエスは「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(民21:4-9)と語っておられる。「戸を開ける」それは私たちの罪を背負って十字架に架かって下さったイエスを仰ぐことである。