2021/11/29-12/4
- 2021.11.29
- ディボーションの友
2021/11/29(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ 1:3-7 賛美 新聖歌 390
神からの愛を受けてそれによって神と人を愛することが出来る。そのために求められる第三のものは「純真な信仰」である。宮平望師は「純真な信仰」を「偽りのない信仰」と訳し、
「偽りのない信仰」とは、表面的な演技による信仰ではなく、心の純真さに由来する信仰のことであり、それは唯一真の救い主であるイエス・キリストに対する信仰である(cf.テモ二1:5)。」(テサロニケ人・テモテ・テトス・フイレモンへの手紙 私訳と解説P139教出版社2014)
と述べておられる。主は「しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サム上 16:7)と語っておられる。表面的に繕うことによって人の目は誤魔化せるかもしれない。しかし、神の目は誤魔化すことはできない。いつも神の前に真実に歩もう。
2021/11/30(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書9:9-10 賛美 新聖歌89
1-9節では諸国民に対する厳しい神の裁きが述べられているが、9-10節にはエルサレムに対して希望が語られている。突然ゼカリヤはエルサレムに対して喜び踊れと述べる。それは彼らのところに王が来るからである。この王は神から送られ、神に対して従順であり、神から与えられた働きを行う。既に勝利がこの王の手に与えられている。そして彼は謙遜にもろばに乗って来られる。
ゼカリヤの時代では見ていなかったものが今の時代には明らかにされている。私たちは福音書が証言しているようにろばに乗って来られる神の御子イエス・キリストのエルサレム入城の姿をこのゼカリヤ書を読むときに思い起こす。主は従順に神の救いのご計画に従い、すべての罪びとのために勝利を取ってくださった。12月に入りアドベントが始まっている。この時、神の子として従順に神の御心に従い、私たちのために勝利を取り、救いの道へと導いてくださった主を待ち望もう。
2021/12/1(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ1:8-12-7 新賛美 新聖歌 222
パウロは「律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。」と語る。前の段落においては「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。」と述べた。ローマの信徒への手紙においても「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(ロマ 13:10)と述べている。イエスは「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と問う律法の専門家に対して「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)と答えておられる。愛だけが律法を全うするのである。
2021/12/2(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書9:9-10 賛美 新聖歌68
ゼカリヤ書によると、勝利を与えられた王は自ら戦車や軍馬といった戦いの道具を捨てる。彼は世界を治めるための武力を自ら手放す。普通ならば自ら武器を放棄したものに勝ち目はない。しかしこの神が送ってくださる平和の王は諸国の民に平和を告げるのである。それはこの王を送り、平和を実現される神がおられるからである。
神はゼカリヤの時代からすでに来るべき王を通して実現される平和と救いを約束されていた。今私たちは、神が時満ちて送ってくださった御子イエス・キリストの救いの御業が成就されたときに生きている。そしてその救いと平和のメッセージを、聖書を通して語られている。主のご降誕を祝う時に与えられた救いに感謝しよう。また多くの人々がこの平和と救いを見出すことが出来るように、心を開いて神の子のご降誕、キリストの救いの御業を聞き、救いを受け取ることが出来るようにとりなして祈ろう。
2021/12/3(金) 担当 高谷清師 詩 65:3-4 賛美 新聖歌 18
この詩に背景としてA. ヴァイザーは
「旱魃か訪れ、畑は穀物成長について大きな不安に包まれ、飢飽の幻影が漂っていた。だが今や祈りが聞かれたのである。乾燥した草原は緑なす牧場となり、新芽のもえる畑になった。会衆は、不安の時に願い約束した誓いを果たすべく神殿に集まった。た。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P152』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)
このような状況の中で詩人は「祈りを聞いてくださる神よ/すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを/あなたは贖ってくださいます。」と詠う。イザヤは神の臨在に触れた時「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(イザ6:5)と叫んだ。ぺトロは神なるイエスに触れた時「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ 5:8)と言った。神の聖臨在に触れる時、人は罪の自覚と悔い改めへと導かれ、神の赦しの恵みに与るのである。
2021/12/4(土) 担当 高谷清師 ロマ7:14-25 賛美 聖歌 265
パウロは自らについて「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリ3:5-6)と述べている。そのパウロがこの箇所では「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。(18節)と述べ、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と述べ、「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(24節)と述べ、自分の無力と、助け手を求めている。O. .ハレスピーは
「無力ということは、祈る人の心に認められる第一の確かなしるしです。祈りは、本質的には無力な人のためにのみ備えられたものだと思います。祈りは、無力な人の最後の逃れ場です。(中略)祈りと無力さは切り離すことができません。無力な人だけが本当に祈ることができるのです。(祈りの世界P15日本基督教団出版局1998)」と述べている。
パウロも「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅰコリ 12:10)と述べている。自らの無力を徹底的に自覚するところに祈りが生まれる。
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