2021/5/31-6/5
- 2021.05.31
- ディボーションの友
2021/5/31(月) 担当 高谷清師 コロ 2:6-7 賛美 新聖歌 264
「あふれるばかりの感謝」について吉村和雄師は「「あふれるばかりの感謝」も、聖霊のお働きによって生まれる感謝であって、この世で言われる感謝とは違うものである。この世では、感謝すべき、日に見える出来事があるから、感謝をする。しかしわたしたちは、どのような状況の中にあろうとも、キリストがわたしたちのために、死んでくださり、わたしたちを罪から救ってくださって、わたしたちを神の子、キリストのものとしてくださっていることを、感謝する。見えない事実を、感謝するのである。見える事実よりも、見えない事実の方が、確かであることを知っているからである。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P247-248日本基督教団出版局2012))と述べておられる。
キリスト者も事故や災害にも遭遇すれば、病にも罹る。福音歌手・森祐理氏は阪神淡路大震災においてたった一人の弟さんを失くされた。氏の悲しみはいかばかりであっただろうか。如何ほどの涙を流されただろうか。しかし氏は賛美の歌を歌い続けられた。神に感謝をささげ続けられたのである。その力は聖霊によって働く主イエス・キリストの贖いの恵みによるのである。聖霊に心を開き、キリストの恵みに生きよう。
2021/6/1(火) 担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書1:7-9 賛美 新聖歌427
この預言において人々は改めて神の前に立たされていること、そして主の日が近いことを思い起こさせられる。主の罰を受けるのは高官たちと異邦人の服を着て敷居を飛び越える人々である。つまり、外国のファッションや習慣を喜んで受け入れ、そこに価値の中心を見出し始めた人々である。新たな生活様式を取り入れるという形について述べられている以上の意味が、ここにはある。敷居を飛び越えるというのは外国の習慣であったが、その問題点はこのような習慣の源にある迷信であった。外国の習慣を取り入れるとき、その行動様式と共にそこに根付く迷信や様々な宗教、ひいては偶像礼拝までもが密接に関わっている。目新しい習慣に心を向けていくとき、同時にそれらの習慣と共に取り入れられる思考に働きかける偶像に心惹かれ、気が付けば父祖の時代から親から子へと受け継がれてきた真の神に対する信仰は色あせていく。
神が最初の時からご自身をあらわし、信仰の父祖から新しい世代へと受け継がれてきた信仰を決して他の者にすり替えてはならない。斬新さや発展を追いかけるあまり、受け継いできた信仰を失うことがないよう、み言葉を大切にしよう。
2021/6/2(水) 担当 高谷清師 コロ 2:8 賛美 新聖歌 394
パウロは「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」と語る。この箇所について吉村和雄師は「ここでパウロが、目に見える現実よりも、見えない現実に集中して語っていることを、忘れることはできない。福音の説教をするのは人間である。しかし、そこで働いておられるのは、聖霊である。人間の言い伝えにすぎない哲学、むなしいだまし事を語るのは、人間である。しかし、そこで働いているのは、世を支配する霊である。わたしたちは、今どのような霊がその場を支配しているかを、見分ける必要がある。わたしたちの教会は、どのような霊に支配されているだろうか。聖霊が支配しておられるだろうか。それとも別な霊の支配を受けているだろうか。自由の霊が支配しているだろうか、それとも、わたしたちを奴隷にする霊が支配しているだろうか。それを見ている必要がある。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P247-248日本基督教団出版局2012))と述べておられる。
時々教会の人たちに注意を促すことがある。雄弁、訥弁にかかわらず、聖書の言葉によってキリストを語る説教者と、短い聖句を取り上げ文脈から切り離して自分を語る人があることに注意しなさいと。それを見分けるのは聖霊によるのである。真実の神の言葉に聞き従い、キリストに根を下ろして造り上げられよう。
2021/6/3(木)担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書1:10-11 賛美 新聖歌389
ゼファニヤはいつか主が定められた日に主の日が来ると述べる。それは一部の人だけに関わる出来事ではない。ここにはエルサレムの各地区が挙げられている。北側の城壁にある魚の門、さらにその北に広がるミシュネ地区からも人々の叫びが聞こえる。それは丘の上から敵の襲来の事実が目の前に迫っているからである。北側の神殿地区も、南側の商業地区も、等しく敵の襲来を受けて滅ぼされて断たれる。主の日の出来事はエルサレムの一部の民ではなく、確実にすべての人々に影響を及ぼすのである。
「主の日」は神をないがしろにして神への畏れを失った人々に対して神が裁きを行われる日でもある。そのような日に対して人々は備えができていただろうか。私たちは備えができているだろうか。「主の日」が滅びの日となることがないように、私たちは日々主を畏れて正しく、主の御心を知り、悟り、行うことができる者でありたい。
2021/6/4(金) 担当 高谷清師 詩 62:8 賛美 新聖歌 321
自分を棄て、迫害する者となり、口先で祝福し、腹の底で呪い、命さえも狙う昔の友人たちの中に在って、苦悩し、心を注いで祈り、確固とした岩なる神に立った詩人は「わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。」と詠う。イエスは「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタ7:24-27)と教えておられる。日本歴史上の出世頭とされる太閤秀吉は死を前にして「露とおち露と消へにしわが身かな/浪華の事もゆめのまた夢」と詠んだ。
生死を貫く命の土台、それはイエス・キリスト以外に無い。岩なるイエスの上にしっかり立とう。
2021/6/5(土) 担当 高谷清師 コロ 2:9-10 賛美 新聖歌 427
パウロは「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており」と語る。ヨハネは「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハ 1:14)と述べ、更に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ 1:18)と述べている。神は御子においてご自身を私たちに示してくださった。私たちは聖霊によって御子を、神を知るのである。
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