2021/5/24-29

 2021/5/24(月) 担当 高谷清師 コロ 2:6-7 賛美 聖歌 196

 コロサイの人々に向ってパウロは「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」と語る。パウロは「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」(?コリ15:3)と述べている。パウロが伝えた福音の真理は彼の思索の産物ではなく、彼自身が受けたものであった。

御子において啓示された福音の真理は聖書において私たちに伝えられており、何人も伝えられた福音の真理を実直に受け止め、自らの主義主張や欲望によって差し引いたり、付け加えたりしてはならない。聖書は「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いである命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙 22:18-19)と警告している。

 

2021/5/25(火) 担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書1:2-6 賛美 新聖歌

 ゼファニヤ書に記された主の言葉は冒頭から明確に裁きの日が来ることを語る。神ご自身が地の面からすべてのものを一掃すると断言なさる。それは神が創造されたすべての物に及ぶ裁きである。なぜ神は突然このように厳しい裁きを宣言されるのだろうか。ここには神が思い直してくださるかもしれないという希望を抱かせる余地すらない。神はこのさばきを実行されるにあたり、明確な理由を示しておられる。それは「神に逆らう者をつまずかせ」(1:3)と述べられている。主がご自身の手で造られたすべてを滅ぼされる時、それは気まぐれによるのではない。多くの預言者によって警告され続けてきたにもかかわらず神に逆らい続けてきた者たちに向けて神のさばきが行われることがわかる。

 「神」と言えば私たちに恵みを下さる方だと期待する人々は多い。確かにそうである。しかし同時に、神はご自分を愛して畏れる人々に、神の言葉に従い、真の神だけを礼拝する忠実さを求められる。突然神の裁きを受けて「なぜ?」と慌てふためくことがないよう、神のみ言葉を学び、何が忠実さとして求められているかを知り、神の御心を実行して歩む生活を身に着けよう。

 

2021/5/26(水) 担当 高谷清師 コロ 2:6-7 賛美 新聖歌 394

 パウロは「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」と語る。ぺトロはイエスに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われた時「あなたは、メシアです。」と語り、信仰を告白した。その後イエスがご自身の死と復活を予告された時ぺトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。するとイエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ぺトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と。その後、イエスは群集に「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と教えられた。「あなたは、メシアです。」「イエスは主である」との信仰告白を生きるとは、この世の価値観に生きることではなく、神の価値観に生きることである。

 

2021/5/27(木)担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書1:2-6 賛美 新聖歌

 この箇所の後半の4節から6節は地の面のすべてのものからユダとエルサレムの全住民に対象が絞られている。南王国ユダの罪は何だったのだろうか。それはエルサレムの神殿にまで入り込んだ偶像礼拝であった。カナンの地に古くから存在していたバアル信仰を取り入れ、またヨシヤの時代に力を得て支配を強めていたアッシリアの偶像礼拝である天の万象崇拝も名指しされている。唯一の主なる神だけを礼拝することはイスラエルの民の歴史の初めから明確に求められている。十戒にも記されている。しかし実際のイスラエルの歴史は絶えず入り込む偶像礼拝との戦いであった。神はこの時に至るまで民に偶像礼拝から離れるよう警告し続けて来られたが、祭司たちまでもが一緒になって偶像礼拝を行っている。

 預言者の時代にも今の時代にも、あらゆるところで人の手で刻んだ像が神として礼拝される。しかしこれは神が厳しく禁止されることである。偶像になるのは刻んだ像だけではない。神以外の者を第一にする私たちの欲もまた偶像となる。私たちの心を省みて、真の神だけを畏れ、礼拝しよう。

 

2021/5/28(金) 担当 高谷清師 詩  62:6-7  賛美 新聖歌 248

 詩人は「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。/神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。/わたしは動揺しない。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは「かつての友人の偽善的で校猪な不真実をいたく失望して湧き上がった激昂と正しい怒りにわれわれは共感できる。それにもかかわらず、彼はこれらの苦々しい感情に捕らわれることはないのである。それは彼が、人間の不安と頼りなさのすべてを越える立場を得たからである。すなわち、信仰によって神に向かった眼が彼に贈る平安と確信である。彼が自分自身にも敵対者にも崩れ落ちる壁のように思えても、ここに自分を支える柱を持っている。希望の新しい光が神から射して来て、彼の状況は新しい光に照らし出され、怒りの波が静まり、魂の中は平静になる。詩人は自分の興奮状態に対するのに、神を信頼する穏やかな安心感をもってする。自分の敵に対する激怒の言葉に、―この詩の内外の状況の出発点に再びもどる―彼の力の唯一の源泉たる神にある平静を述べる強い信仰告白が続く。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P137ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。パウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリ4:6-7)と述べている。平安は神にのみ、ある。

 

2021/5/29(土) 担当 高谷清師 コロ 2:6-7 賛美 新聖歌 394

 パウロは「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」と語る。この箇所について吉村和雄師は「ここでパウロが強調している、「キリストに結ぼれること」と「キリストに根を下ろす」こととは、いずれも目に見える出来事ではない。その意味で霊的な事実である。わたしたちは、洗礼を受けることによって、キリストに結ぼれる。それは、聖霊が働いてくださった結果、起こることである。「キリストに根を下ろす」ということも、同様に聖霊のお働きである。正しい福音が語られている時に、その言葉に耳を傾け続けることによって、わたしたちは、キリストに根を下ろす者になる。キリストから命をくみ取って成長する者になる。教えられた通りの正しい信仰が、わたしたちのものとして、身に付いていく。そして、あふれるばかりに感謝する者にしていただくのである。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P247-248日本基督教団出版局2012))と述べておられる。黒崎幸吉師はロマ書1:17を前にして「信仰もまた神の賜物である」と語られたが、全くその通りである。神に対する全き信仰により、聖霊によってキリストに根を下ろして造り上げられよう。