2015/4/6-11

2015/4/6 (月) 担当 高谷清師  マタ 28:1-10  賛美 新聖歌 127
 主イエスが十字架上で息を引き取られたのは午後の3時頃であった。安息日のはじまりが迫っていたので弟子たちは遺体に葬りのための十分な処置をすることが出来ず、応急の処置をして葬り、婦人たちは改めて十全な処置をして葬るべく、準備を整えて安息日が明けるのを待ちわびていた。東の空が白み始めたのを見て彼女たちは墓に急いだ。墓の入り口をふさぐ重い石を誰が動かしてくれるだろうか・・・・・、気遣いながらも急いだのである。彼女たちが到着するや否や、主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った。そして言った「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」と。彼女たちは恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
 「復活なさったのだ」これは神の御業の宣言である。医学的に・・・、生理学的に・・・の議論ではない。神の権威と御力による御業であり、勝利である。私たちの喜びであり、希望である。御業をたたえよう。

2015/4/7(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下29:1-14  賛美 新聖歌156  
 神に背き、神殿をけがしてその門まで閉じてしまったアハズ王の死後、王位を継いだのはその子、ヒゼキヤであった。ヒゼキヤについては最初から「彼は、父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。」(29:2)と報告され、高い評価を受けている。このようにユダの王はダビデ王を基準としてその歩みが評価されるということは今日多くの人が慣れ親しんでいることだろう。しかし、実際にこれは列王記において頻繁になされることであり、歴代誌ではヒゼキヤとヨシヤがダビデ同様に神によろこばれることを行った王として肯定的に評価され、また反対にアハズがダビデとは対照的に悪を行った王として評価されているだけである。アハズに次いで王となったヒゼキヤは父とは全く逆の正しい道を歩んだ。父が汚した神殿をきよめ、父が閉じた門を開き、祭儀を回復し、さらに人々が神の前に出て正しい犠牲をささげられるように礼拝を回復したのである。
 「蛙の子は蛙」という言葉が日本にはある。確かに親子として似ている部分は多く持っている。しかし、神の前にどのように歩むか、それは親から無条件に同様な資質として受け継がれるものではなく、生かされている一人一人が神の前に信仰の決断をすることによって選び取るものである。

2015/4/8(水) 担当 高谷清師 マタ 28:1-10  賛美 心の中でメロディを? 20
 マタイは番兵たちについて「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」と記している。27:62-66に記されているように、この番兵たちは祭司長たちとファリサイ派の人の要請をうけて、ピラトの許可のもとに配置されたのであった。彼らは当時の世界最強のローマ軍の屈強な兵士であった。彼らが重装備をして厳格な規律のもとに24時間体制で警備についていたのである。地上の何者もこの警備を破ることはできなかった。しかし主の天使が遣わされたとき、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」のである。彼らは何も為すことが出来ず、目の前で起こる出来事をうつろな目をもって見つめるだけであった。イザヤは「万軍の主が定められれば、誰がそれをとどめえよう。その御手が伸ばされれば、誰が引き戻しえよう(イザ 14:27)」と述べている。世が、サタンがいかに妨げようとも、主の定められたことは必ず成し遂げられるのである。確信を持って御言葉を生きよう。

2015/4/9(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下29:15-36  賛美 新聖歌269  
 ヒゼキヤが王になってからすぐに神殿をきよめ、祭儀を整えた。この過程のすべてにおいて彼は自分の考案した方法に従ったのではなく、ダビデと王の先見者ガドと預言者ナタンの戒めに従って(29:25)すべてを整えて行った。この改革を通して王と預言者だけではなく、会衆が感謝の献げ物を携えて神の前に出ることができた。会衆が携えた感謝の献げ物は焼き尽くす献げ物であった。すなわち、神からの赦しを感謝していけにえのすべてを主にささげ尽くす物であった。神殿をきよめ、神との正しい関係に立ち返った人々は赦された。それゆえに感謝をもって神の前に出ているのである。
 今日、私たちもまた神の赦しを受けている。その赦しを心から感謝して神の前に出ているだろうか。赦されたその恵みを忘れて感謝なく、なんとなく日々を過ごしていないだろうか。先日主の復活を祝った。この時に私たちの罪が赦されたその恵みの大きさをもう一度思い起こし心からの感謝を捧げよう。

2015/4/10(金) 担当 高谷清師  マタ 28:16-20  賛美 新聖歌 166
 婦人たちによって伝えられた命令に従い、弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登り、イエスに会った。そこでイエスは「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と宣言された。十字架の御業と復活を通して、イエスは父なる神から一切の権能を授かったのである。それは天地宇宙のすべての権能である。これについてパウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです(フィリ 2:6-11)」と述べている。私たちの主は天地の主権者である。すべての栄光を主に帰し、主に賛美をささげよう。

2015/4/11(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 16:9-13  賛美 新聖歌281
マグダラのマリアは復活なさったイエスに最初に出会った人でした。このマリアは、そのあとで復活の主に出会った二人の弟子たち同様に、復活の主に出会っていないほかの弟子たちにこのよい知らせを―主の復活を―告げました。しかしこの知らせを聞いた弟子たちは主の死を悲しんでいたにもかかわらず、それを信じようとはしませんでした。彼らの心が悲しみによって閉ざされ主を見上げることができなかったのです。私たちは、いかなるときにも神の約束に堅く立って、神に目を注いで歩みましょう。”,,1070″