≪デボーションの友≫2023/3/13-18

2023/3/13(月) 担当 高谷清師 マル14:61-15:15  賛美 聖歌(総)579 聖歌 555

 最高法院の裁判において大祭司が「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋ねたのに対してイエスは「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」とお答えになった。この答えを聞いた大祭司は、衣を引き裂きながら「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」言った。これを受けて最高法院は死刑にすべきだと決議した。夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。当時、ユダヤはローマの支配下にあった。ユダヤは律法を基本とする独特な法制度などもあってローマは幅広い自治を認めていた。しかし人を死刑に処するのはユダヤに与えられた自治の範囲を超えており、はローマの法廷における判決によらなければならなかった。ピラトに対して祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。しかしピラトは祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと見抜いていた。カインは自分の献げ物が神に受け入れられず、アベルの献げ物が神に受け入れられたのを見てアベルを妬み、殺害した。カインに対して神は「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(創 4:7)と語っておられる。妬みは誰の心にも存在する感情である。日々、御言葉に拠ってこれを支配して歩もう。

2023/3/14(火)担当 ラウジー満世師 創世記31:43-32:1 賛美 聖歌(総)635 聖歌597

 ヤコブとラバンとの最後の場面である。ヤコブが危惧していた通りにラバンはヤコブを追って来て、ヤコブの財産はすべて自分のものであると主張した。最終的にはラバンもヤコブと協定を結んだうえで彼らを去らせることに同意する。両者の関係においてはラバンが社会的に強大な力を持っており、法的に正当であるように装いながらも実際にはヤコブの利益が損なわれ続けてきた。しかし最後には神の名によってお互いに責任を負い合う協定が結ばれて、ようやく両者の間に平和が実現される。

 神は社会的に弱い立場であったヤコブを守られた。それをとおしてヤコブはラバンのもとで働いて得た正当な財産をもって故郷へと帰る道が開かれた。神は弱者のために介入し、不当な不利益を被ることから守ってくださる。神の守りは神に頼る者に示される。

2023/3/15(水) 担当 高谷清師 マル15:1-15・イザ53:1-12 賛美 聖歌(総)653 聖歌 608

 最高法院がイエスに死刑の判決を下した罪名は「神を冒涜した罪」であった。ピラトの法廷における罪名は「ユダヤ人の王」である。最高法院における「神を冒涜した罪」は「律法」を認めないローマの法廷においては成立しないからである。「ユダヤ人の王」はピラトの法廷においては国家反逆罪であり、死刑に値する、それも十字架刑に値する罪であった。法廷において祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかった。ゲツセマネの園においてイエスは「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)と祈られた。ヨハネによる福音書においては「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハ3:14-15)と語っておられる。主は十字架こそが神の御心であることを理解し、黙して十字架に赴かれたのである。神はイザヤによって「わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(イザ53:12)と語っておられる。従順こそが、神の御心を達成する。

2023/3/16(木)担当 ラウジー満世師 創世記32:2-32:13 賛美 聖歌(総)478 聖歌465

ヤコブはもはや逃亡者としてではなく、故郷に帰還する者として旅を進める。とは言え、帰還の旅も彼にとっては心の重いものであった。かつて兄の怒りを買って家を出たヤコブはその兄のもとへと帰っていく。兄の怒りが静まっているかどうかも分からないのである。その時に突然神のみ使いたちが現われた。ヤコブはみ使いを「神の陣営」と認識してこの場所を「マナハイム(二組の陣営)」と名付けるが、果たしてこの陣営がヤコブ自身の側につくのか、敵対するのかはまだ分からない。恐怖でいっぱいのヤコブはエサウに使者を送り様子を伺うが、エサウも剣に頼って生きる(創27:40)という神の言葉が成就して4百人もの供を連れて来るほどに力を得ていることを知るのみである。ヤコブは様々な策をめぐらし、兄に会う準備を整えるが、それと同時に神に祈ることも忘れてはいない(32:10-13)。

 ヤコブにとってはラバンとの問題が解決したら、また次の問題に対処しなければならないという状況が続く。かつての自分の行いの実を刈り取ることであり、避けられないのである。あらゆる時に彼は神の助けを必要とする。そして神はどんな時にも祈りを聞いてくださる。私たちもどんなときにも神に祈ることが出来るということを決して忘れないで居たい。神は祈りを聞いてくださる。

2023/3/17(金) 担当 高谷清師 マル15:1-15 賛美 聖歌(総)151 聖歌 196

 ルカは「ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。」(ルカ 23:4)と語っている。しかし祭司長たちに煽動された群衆は、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中のバラバという男を釈放するよう、要求した。ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。すると群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」と。ピラトは「いったいどんな悪事を働いたというのか。」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。そこでピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

 ピラトはイエスが無罪であること、祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたが、自らの保身のために、イエスを十字架につけるために引き渡したのである。私たちがイエスに従おうとするとき、世から不利な扱いを受けることがある。主は「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハ 16:33b)と語っておられる。勝利の主を仰ぎ、苦難に耐え、主に従おう。

2023/3/18(土) 担当 高谷清師 マル15:1-15 賛美 聖歌(総)469 聖歌 456  祭司長たちに煽動された群衆はピラトの「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」との問いに対して「十字架につけろ。」と叫んでいる。この群衆は数日前「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マタ 21:9)と叫んでイエスを迎えた者達であった。イザヤは「人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」(イザ 2:22)と述べている。ヨハネは「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(ヨハ 2:23-25)と述べている。パウロは「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(Ⅱテモ 4:3-4)と警告している。移り行く世の言葉ではなく永遠の真理の言葉に固く立って進もう。