2016/12/12-17

2016/12/12(月) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:10  賛美 新聖歌 21
 ヨハネは「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」と述べる。ヘブライ人への手紙は「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」(ヘブ 1:1-2)と述べている。またパウロは「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」(使 17:27)と述べている。更に詩篇は「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても、その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。」(詩 19:2-5)と述べている。言葉は世を創造し、受肉以前にも万象を通し、預言者を通し、世に対しご自分を顕された。しかし世はそれを認めなかったのである。主は言われる「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。

2016/12/13(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書57:14-21 賛美 新聖歌75
 神は人々に道を作れと言われているが、これは捕囚の地から約束の地へ再び帰るための道である。罪を犯して悔い改めることができずに裁きを受けた民はついに神の憐れみにより解放される。この時主は、ご自身が高く聖なるところに住んでいるにもかかわらず「打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあ」る(57:15)と語られた。神はかつて罪を犯したとしてもその罪に気付いてそれを悔いる人、心の砕かれた人と共におられる。高い所に住まわれる神が、罪びとと共にあることを選ばれた。それは罪に苦しみ、自分で解決できない弱りはてた人々と共にあるため、そしてそこから人々を救い出すためであった。
 イザヤ書の時代に語られたこの言葉は真実であったと私たちは断言できる。主イエスが人となってこの世に来てくださり、救いの道を開いてくださった。アドベントに入り、主の降誕を待ち望むこの時、忙しさのさなかにあって一時、手を休めて主の恵みに思いをめぐらせ、感謝の祈りをささげよう。

2016/12/14(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:11-13  賛美 聖歌 273
 御子はおとめマリアを通してご自分の民、ユダヤ人として世に来られたが、神の民は、御子を受け入れなかったのである。しかし彼らのうちのある人々は御子を受け入れた、即ち御子を信じたのである。信じた人々に対して御子は神の子となる資格を与えたのである。新共同訳で「資格」と訳された言葉を口語訳は「力」と訳し、新改訳は「特権」と訳し、宮平師は「権威」と訳しておられる。これについてM.C.テニイは「この言葉は、他の人の同意、または任命にもとづいて行使される委任された権威、権力、あるいは特権を意味する。(中略)この権威は単なる可能性以上のものである。家族的関係は出生によって現実のものとされるが、それはただ血のつながり以上のものである。信者たちが神の生命を与えられるのは,肉体の生命を与えられる生物学的な経過によってではなく、神が与え給うことによるのである。」(ヨハネによる福音書P64−65日本基督バプテスト連合宣教団1958)と述べている。信仰によって与えられるのは霊的命であり、永遠の命である。

2016/12/15(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書57:14-21 賛美 新聖歌78
 火曜日に続いてこのみ言葉を聞きたい。心の打ち砕かれた人をとこしえに責め続けることなく赦してくださる神は、この人々に癒しと回復を与えると言われる。そしてそれは平和の約束である。罪の性質を持った不完全な存在である私たちを神の臨在と霊によって満たし、神の愛と癒しに満たされた者にしてくださるという約束である。慰めに満ちた約束である。ただしこの平和は地上のあらゆる人に等しく与えられるのではない。これは神に逆らう者には与えられない。神のことばを聞いても受け入れない人、背く者は愛の神が差し出してくださったこの素晴らしい恵みを受け取ることができない。
 主の降誕を待ち望むこの時、今一度私たちの心を省み、罪や傲慢があるならば、主の前に悔い改めて救い主をお迎えしたい。また救い主を受け入れる準備が整っていない人々に救いのメッセージを語り続けよう。

2016/12/16(金) 担当 高谷清師  詩編28:6-7  賛美 聖歌 556
 神に逆らう者、悪を行う者に囲まれており、沈黙しておられる神に向って祈ってきたダビデは、本節では一転して「主をたたえよ。」と、神を賛美する。それは神が「嘆き祈るわたしの声を聞いてくださった」からである。この箇所について小畑進師は「ダピデ詩篇特有の〈暗〉から〈明〉への転換でした。ぎりぎりのところまで追いつめられた正義、無実の義人は窮迫の極みに抑えつけられ、ついに神の義が発動して、事は決するのです。まさに、このような主題は、ダビデ詩人においては作文ではなく、体験するところだったのであり、彼の独壇場と言ってよかったのです。そして、のちのちまでも、彼の歌は苦しむ者、悩む者をどれほど支え、力づけてくれてきたことか。」(詩篇講録上P329いのちのことば社)と述べておられる。神に逆らう者、悪を行う者によって苦しめられ、祈り求めても主の答えを得ず苦しみ続ける人、神はわたしを棄てられたのか?という思いに襲われる時があるかも知れない。しかしそうではない。ダビデの体験を通し、ヨブの体験を通し、神は私たちに励ましと確信を与えられる。逆境の時も固く信仰に立って歩もう。

2016/12/17(土) 担当 高谷由紀子師 コヘレトの言葉 12:1-2 新聖歌 337
 「青春の日々にこそ、お前の創造主(神)に心を留めよ」と勧められています。「今はまだ若いので自分の力で精いっぱい生きていきます」という青年、ほかにも「信仰は年を取って社会での働きが終わってから考えます」あるいは「子供には信仰はわかりません」などという意見を述べる人が多くおられます。しかし聖書は、青春の日々にこそ、神様を信じることを勧めています。今日、日本人の平均寿命はずいぶん長くなりました。しかし、個々人にとっては死の訪れる日はいつであるか、分かりません。死が襲ってきたとき、私たちの人生はやり直すことが出来ないのです。それ故、今が青春の日であるとしても、神を信じることが、永遠の命を得ることが大切なのです。”,,978″