2015/4/13-18

2015/4/13 (月) 担当 高谷清師  ?コリ15:1-2  賛美 新聖歌 316
 パウロは自らが福音を伝え、それによって形成されたコリントの教会の混乱した状況を伝え知り、本書簡を記したのであった。そしてこの15章に至って、13章で取り上げた愛と共に本書簡の重要テーマである復活について語る。それに先立ってキリスト教信仰の根幹である福音について確認を行っている。福音は「わたしがあなたがたに告げ知らせた」ものであり、「あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている」ものであった。そして「しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまう」のである。
 ある人は「人間皆、神の子です」と教える。彼は福音に触れ、人はキリストを信じる信仰により、キリストの流された血潮によって罪赦され、神の子とされることを学んだ。しかしキリストの血、十字架の場面は残酷で日本人には受け入れられないとして、十字架を取り除き「人間皆、神の子です」と教える。もとよりそこに救いはないのである。このような誤りに陥らないために、またこのような誤った教えを見抜くために絶えず福音の内容を確認することが大切である。

2015/4/14(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下30:1-9  賛美 新聖歌154
 神殿が清められたとき、ヒゼキヤはそこで過越祭を行うことを呼びかけた。本来第一の月に行われる祭りであったが、民数記9章によると、礼拝者が汚れている場合には一か月遅れて祭を行うことが許されていた。ヒゼキヤの時代には多くの人が第一の月に行うことができなかったので、祭り自体が一か月遅らされたのである。この時にはヒゼキヤの呼びかけから始まって王と高官が祭りのために招集をかけることに参加し、北王国を含む全イスラエルにも呼びかけられている。ヒゼキヤの時代に北王国はアッシリアによって滅ぼされた。その北王国の人々も、先祖の罪を離れて神に立ち帰るならば、その祭に加わることができるのである。
 神の裁きの故に国が滅ぼされた北王国の人々に対してさえも、主の祭に加わる呼びかけがなされる。もちろんそのためには罪を離れて悔い改める(立ち帰る)ことが絶対に必要である。どれほど罪を犯しても、心から罪を悔いて神に立ち帰るならば赦されるのである。

2015/4/15(水) 担当 高谷清師 ?コリ15:3−4  賛美 聖歌 273
 その福音について「わたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と語る。パウロが伝えた福音は彼の創作ではない。パウロの肉から出たものではない。それは神から受けたものである。彼はそれをコリント人に伝えたのである。更に、神は聖霊によって今日の私たちに伝えておられるのである。これは重要な事柄である。福音は、聖書の言葉は神から出、聖霊により様々な媒体者により、私たちに伝えられているのである。それ故パウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です(?テモ 3: 16)」と述べているのである。誤りなく、義の道を行くために日々御言葉に親しもう。

2015/4/16(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下30:10-16  賛美 新聖歌170
 30章の最初に記されているとおり、過越祭を行おうと決定し、呼びかけたのはヒゼキヤであった。そしてこの祭りが実行されるときには民が呼びかけに答えている。しかしこれは、王の権威をもって民に強要したものではなかった。この呼びかけを聞いた民は、自発的にこれに応答したのである。集まってきた民はエルサレムの祭壇と香をたく台を取り去った。これが捨てられたキドロンの谷はかつて神殿の汚れた祭具類が捨てられた場所である。そしてこれは祭司とレビ人によってではなく、民によって実行された。宗教指導者と国家の指導者だけではなく、民が自発的に祭に参加し、実行しているのである。ここでは共同体全体が神の前に出るということにおいて一つになっている。
 神への礼拝は指導者だけの熱意によって、教会全体に強要されて行われるものではない。礼拝はどの立場にある者も、神を信じる者、悔い改めて神に従う者が心を一つにしてささげるものである。今日の教会の礼拝はどのような形で行われているだろうか。神を信じる一人一人が常に感謝と喜びをもって主の御前に出る喜びに満ちた礼拝をささげたい。

2015/4/17(金) 担当 高谷清師  ?コリ15:3−4  賛美 新聖歌 112
 パウロは福音の内容について語る。第一は「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」である。キリストの死について人間的側面から見るならユダヤ人たちが妬みによって、ローマ人の手を借りてイエスを殺したのである。しかし神的側面から見るなら主が「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハ 3:14-16)」と語っておられるように、私たちの罪を取り除き永遠の命を得させるための主の御業であった。主の十字架の血潮と死は、私たちの罪を赦し、永遠の命を得させる原点である。

2015/4/18(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハ 3:1-6  賛美 新聖歌 359
ニコデモはファリサイ派に属する議員でした。地位も身分も権威も持ち合わせた人でした。このニコデモがイエス様のなさっていたしるしと奇跡に感動して、主イエスを偉大な人とし、尊敬の念を抱いていました。そして「神のもとから来られた教師である」と告白しました。イエスの答えは「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」即ち、しるしや奇跡は重要なものではなく、真に重要なのは神の国に入ることです。そして神の国に入るのに必要なのは、修養や道徳によって人格を向上させることや神のなさる奇跡を見たり体験することではなく、神の御霊の働きに答えて罪を悔い改め、十字架の贖いの恵みを受け入れることです。今日も十字架を見上げ、信仰によって歩みましょう。”,,1105″