2021/6/7-12

 2021/6/7(月) 担当 高谷清師 コロ 2:9-10 賛美 新聖歌 267

 フィリピの信徒への手紙においてパウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリ2:6-9)と述べている。神性は人となられたキリストの内に見える形をとって宿っており、世を支配する霊の内にはおられない。実に、キリストは、神のご計画に従い、愛によって、神の身分を棄て、神と等しい者であることに固執せず、私たちを死に定める罪から贖うために、その栄光を棄て、人間の姿で現れ、十字架の死に至るまで従順であられたのである。それ故に、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった。キリストはすべての支配や権威の頭であり、私たちがキリストを信じる時、キリストにおいて満たされているのである。

 

2021/6/8(火) 担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書1:12-13 賛美 新聖歌369

 「預言者が何を語ろうと、み言葉が何を伝えようと、現実には神は良いことも悪いこともできないではないか。神がおられることは否定しないから、律法を守って義務は果たすけど、神に期待もしないし、恐れも尊敬も持たない。してもしなくても私たちの生活は変わらない。」とゼファニヤの時代の民は考えている。幸いをもたらさないが、災いをももたらさない神は、居ても居なくても同じだから、心から崇めることも無くなっていく。強い意志によって神に背いたり、神を否定したのとは違い、当時の民は何となく神を畏れる気持ちを失い、何となく神に信頼することもなくなり、自分の力でやっていけるという傲慢と不信仰に陥っていた。

 信仰生活において気を付けなければならないのは、気付かぬうちに何となく神なしで生きられる、神は安全装置として信じているのは良いことだが、心から信頼する相手ではないという状態に陥ることではないだろうか。今私は神を畏れ、信頼しているだろうか。自分自身を見つめなおし、神との関係を確認しよう。

 

2021/6/9(水) 担当 高谷清師 コロ 2:11-13 賛美 新聖歌 343

 パウロはここでコロサイの聖徒たちの姿を明らかにする。これは異邦人キリスト者の姿でもある。救われる以前の彼らは「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいた」者であった。エフェソ書においては「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(エフェ2:11-12)と述べている。神はこのような者を愛し、福音に預からせ、信仰を与え、キリストを着せ、一切の罪を赦し、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じる信仰により、キリストと共に復活させ、キリストと共に生かしてくださったのである。このように、私たちは神の一方的な恵みによって、ただ恵みによって生かされている存在である。計り知れない恵みを感謝しょう。

 

2021/6/10(木)担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書1:14-17 賛美 新聖歌366

 気づかぬうちに信仰が弱り、神をないがしろにしている民に対して、確実に、すぐ近くに、主の日が近づいており、民にとって暗黒と苦しみの日は避けられないと語る。すでに神は民に対して憤りを明確に表しておられる。民は明確に罪を犯した者たちであると言われる。多くの預言者が送られて罪を示して悔い改めを迫ってきたが、人々は最後まで聞く耳を持たなかった。

 これほど明確に、躊躇なく憤りを示される神についてかたられているのはなぜだろうか。決して神がエルサレムの破壊と滅びを喜ばれるからではない。これほど徹底的な裁きが差し迫っていることを歯に衣着せず伝えることによって、民がぬるま湯の中から抜け出して目を覚まし、あふれる神の恵みを認識して神に感謝をささげ、神の力ある介入が今すぐにでも起こりうることを知って悔い改めて神に仕えることを望まれたからである。

 私たちは祝福の言葉だけではなく、神の恵みに満ちた警告の言葉をしっかりと聞いているだろうか。

 

2021/6/11(金) 担当 高谷清師 詩 62:9  賛美 新聖歌 308

 イエスは「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタ 10:28)と教えておられる。またパウロは「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:38-39)と述べている。

 岩なる神を土台とする人々・イエスを主と告白する人々の歴史は迫害に満ちた苦難の歴史であった。洋の東西を問わず、多くの聖徒たちは信仰の故に命を奪われた。それは今日も続いている。聖徒の地上における危機に際し全能者なる神がその権能を行使して彼らをその危機から解放されたかと言うと必ずしもそうではない。それはこの世の価値観が御国のそれと同じではないことを示している。聖書は「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(黙 2:10)と述べている。最後まで忠実に歩もう。

 

2021/6/12(土) 担当 高谷清師 コロ 2:9-10 賛美 新聖歌 265

 パウロは「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」と語る。この箇所について大宮溥師は「キリストによる罪のゆるしは、人間に対する神の贔屓のようなものではない。十字架の死という、責任が取られ、代価が払われ、公的に罪の決済がつけられているのである。十字架を抜きにした罪の赦しは「安価な恵み」(ボンへッファー〉であって、人間を甘やかし、罪に対する真剣な悔改めが生じないし、他方罪のゆるしに対する確信も与えられない。罪のゆるしが神の気まぐれのようなものであれば、いつまた気まぐれに断罪されるかもわからないからである。神が御自身の恵みとまことの支配を貫くために(それが貫けない時は世界の破滅である〉、神への反逆としての罪を赦すことができず、これを真剣にとりあげられること。しかもこれによって人間の滅びることを欲せられず、御子の犠牲によって罪をくじき、人間を生まれ変わらせて、これを赦されること。これが十字架において実現したのである。」(説教者のための聖書講解No4340日本基督教団出版局1983)と述べておられる。ヨハネは「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(ヨハ 1:17)と述べている。イエスによって成し遂げられた恵みの御業は律法を全うし、信じる者を律法の呪いから解放したのである。