2019/7/15-20

2019/7/15(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14: 4-6 賛美 新聖歌 317

 イエスが「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」と語られたのに対しトマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と尋ねる。これに対してイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われる。13:36においてシモン・ペトロがイエスに「主よ、どこへ行かれるのですか。」と言ったのに対してイエスは「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」と答えておられる。そしてイエスは「どこへ」という問いには答えないで「わたしは道である」と言われる。12:26では「 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」と語っておられる。「道」とはイエスご自身であり、イエスに従うことである。
 
2019/7/16(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書10:1-10  賛美 新聖歌202
 イスラエルの民は宗教心を失っていたわけではなかった。彼らが与えられたカナンの土地に存在した祭りに加わり、神のために祭壇をたてて宗教的建造物を建てて「礼拝」した。しかしその心は荒れ野を導かれた主から離れていた。彼らがそれを自覚していなかったとしても、神は彼らが偶像を礼拝していることをご覧になり、それに対するさばきを行われる。神は民が罪を犯し続けるときに、彼らを「必ず懲らしめる」(10:10)のである。
 神に従うということは、教会に通っている、礼拝に出席しているという形によって保障されるものではない。真の神をしたい求め、礼拝するということはみ言葉によって導かれ、聖霊の働きによって励まされることによってなされる。自分の作り出した理想像が真の神礼拝にとって代わることのないよう、み言葉を土台として歩もう。
 

2019/7/17(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14: 4-6 賛美 新聖歌 342

 イエスは13:36において「あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」と語られた。イエスは道であり命に至らせる道―真理である。それは復活によって完成される、イエスが十字架に架かり、血を流し、死んで葬られ、復活され、天に昇り、神の右の座に着かれることによって―イエスと父との一致において―命となられたのである。故に、イエスは「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われる。自分の十字架を負ってイエスに従い、信仰によってキリストの復活に預かり、命に至るのである。パウロは「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリ3:10-11)と述べている。
 
2019/7/18(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書10:11-13  賛美 新聖歌358
 かつて神はイスラエルに労働を与えられた。それは彼らを苦役で苦しめるためではなく、神が民に与えてくださる土地の実りを刈り入れ、その祝福を喜ぶためであった。民は働いた。しかし彼らが刈り入れたものは神が与えようとされていた愛の実りではなかった。刈り入れたものは「欺きの実」(10:13)であったという。なぜこのようなことになったのか。それは彼らが労働という努力をつぎ込んだものが神の御心に適う対象ではなかったからである。彼らは労働を行ったが、それは悪を増し加えるものであった。
 私たちも自分の生活に責任を持ち、神の御心に沿う正しい働きをなし、祈りの中になされるその働きを通して神からの祝福としての実りを刈り取る。しかし時にはどれほど努力をしても得られるのは決して好ましいものではないということが起こる。その時に立ち止まり、私の努力の方向性と目的は神の御心に適っていただろうかと問いかけることも大切である。
 

2019/7/19(金) 担当 高谷清師  詩 45:14-15 賛美 新聖歌 343

 詩人は「王妃は栄光に輝き、進み入る。晴れ着は金糸の織り、色糸の縫い取り。彼女は王のもとに導かれて行く/おとめらを伴い、多くの侍女を従えて。」と詠う。パウロは「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェ 5:25-26)と述べている。更にヨハネは「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。」(黙 21:2)と述べている。御子イエスの血潮によって贖われた教会は、すべての罪の汚れを清められ、神の義を纏い、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝くものとされ、キリストのもとに導かれるのである。終わりの日に授けられる栄光を望みつつ、信仰によって今日一日、勝利の歩みを進もう。
 

2019/7/20(土)担当 高谷由紀子師 マタ 16:13-20 賛美 新聖歌 342

 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。これに対して弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。そこでイエスが弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」とお尋ねになるとシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。イエスはこの答えを聞いて「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われました。イエスを偉大な宗教家、尊敬すべき教師、指導者と認めるだけでは十分ではありません。「メシア、生ける神の子」と認めることこそ大切です。それは神の啓示によってのみ、可能なのです。