2019/7/8-13

2019/7/8(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:1-4 賛美 新聖歌 346

 13章におけるユダの裏切りの告知、ご自身が去って行かれ、『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』と言うイエスの言葉、ぺトロの裏切りの予告等によって弟子たちの心は乱されていた。ユダの裏切りを知ってイエスご自身が心を騒がせておられた。そのような状況下でイエスは弟子たちに「心を騒がせるな。」と語られる。この箇所について原野和雄師は「『心を騒がせないがよい』とは、心がバラバラにされないように、分裂させられないようにということである。心が分裂する時に、人格としての人間の存在はくずされる。そういうことがないように、信じることが勧められる。「イエスを信じる」(中略)とは、「イエスへと身を委ねる」ことであり、他の何ものでもなくて、「イエス」をわたしの中心として選びとっていくという、主体的な態度決定と、その決意に支えられている、生きる姿勢を示す。選択は心を一つにさせる。この選択の勇気と決意の中で、分裂が克服され、命に中心が生まれ、統一を持った人格としての人間が生まれる。信じることは、人間の意識の一つの機能ではなく、人間になり、人間であるための根源的基盤である。」(説教者のための聖書講解No30日本基督教団出版局19801425)と述べておられる。信仰は生の要素の一つではない。生の基盤であり、根源である。
 
2019/7/9(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書9:10-14  賛美 新聖歌373
 イスラエルの民にとって「荒れ野」といえばエジプト脱出に続く困難な時代ではあったが、それは同時に神の恵みを象徴する時代であり、神に忠実に従い、神を愛し、神を礼拝し、神に仕えた時代であった。その時にほとんど現実にはありえないことであるが、オアシス以外の荒れ野の地でぶどうを見出すように、神はイスラエルを見出してくださった。しかし神の選びという奇跡によって始まったイスラエルの歴史は長くは続かなかった。まだ約束の地に到着する前のバアル・ペオルで民は神ではないものを神とし、真の神に背いた。民の不誠実と不信仰が露呈された。結果として民は神の祝福を軽視し、主からの祝福を偶像の手に帰した。神の選びによって与えられたイスラエルの「いのち」は長い年月にわたる神への背きの罪のゆえに取り上げられる。
 もはや新しい命が与えられることはなく、子どもたちの命まで奪われるという神の宣言に私たちは心を痛める。しかしこれを聞くときに自分の罪を棚に上げて神を責める者であってはならない。神が愛と恵みではなく、裁きを与えられるときこそ、私たちが主の前に座し、心を吟味し、神との関係を正すための一歩としての悔い改めを求められているときであろう。
 

2019/7/10(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:1-4 賛美 新聖歌 468

 イエスは「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と語られる。神は創造の冠として創られた人間をエデンの園に住まわされた。そこは神が共に住まわれる場所であった。しかし人間は罪を犯したためにその住まいから追われた。イエスが去って行かれるのは御国に私たちの住まいを用意するためであった、即ち、贖いの御業を成し遂げ、それによって信じる者をご自分のもとに迎えるためであった。旧約の聖徒たちは地上に安息の場を見出さなかった。新約の聖徒たちについても「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハ 16: 33)と語られている。しかし、時満ちてイエスが再び来たり給う時、すべての聖徒は永遠の安息に入れられるのである。そこにキリスト者の究極の望みがある。
 
2019/7/11(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書9:15-17  賛美 新聖歌420
 ギルガルの悪とは何か―ホセアはそれを明確に語らない。イスラエルがカナンに入ったときの偶像礼拝の問題も考えられるし、また他の場面も考えられる。それは王国時代初期のサウルが神の御心に反する、焼き尽くすささげ物をささげたことかもしれない(サム上13:8-)。このように、ギルガルに関する過去の出来事は偶像礼拝に関わることでもあり、また、神に対する不従順の罪でもあった。神がこれらの罪のゆえについに民を憎み、追放し、愛さず、命を与えることをやめ、イスラエルが約束の地を追われると言われる。
 これほどきっぱりと神がイスラエルとの関係を拒まれ、これほど厳しい罰を与えると聞くと驚きと衝撃で言葉を失う。「私の知っている愛の神はどこへ行ったのか?」と問いたくなるかもしれない。しかし、神が求め続けられたのは忠実と真の神だけの礼拝であった。その声に背き続け、罪を犯し続けるならば、たとえ選びの民であっても当然の裁きを受けるのである。神と共に歩むことの意味を今一度考え、主に従おう。
 

2019/7/12(金) 担当 高谷清師  詩 45:11-12 賛美 新聖歌 284

 この箇所についてA. ヴァイザーは「老練な詩人は父親のように彼女にさとして言う。おのが民と父の家を忘れ、今よりはまったく夫君のものとなり、彼を王としても敬わなければならないと。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P25)と述べている。イエスに「わたしに従いなさい」と言われた人が「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言ったのに対し、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた(ルカ 9:62)。またイエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ 9:23-24)と教えておられる。キリストの尊い血潮によって罪の世から贖い出された私たちは、罪の世と明確に決別し、一途に神の国と神の義を求めて進もう。
 

2019/7/13(土)担当 高谷由紀子師 使 6:1-7 賛美 新聖歌 419

 弟子の数が増えてきた時、使徒たちは「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」と提案し、一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせました。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置き、彼らに食事の世話をする働きを委任しました。召された者たちが祈りと御言葉の奉仕に専念することによって教会は大きく成長していきました。私たちも御言葉の奉仕に召された者がその奉仕に専念できるよう、支えていく者になりましょう。