2021/12/20-25

 2021/12/20(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ1:12-17  賛美 新聖歌 266

 「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と語ったパウロは「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」と語る。イエスは足に香油を塗り、愛と信仰を顕した罪ある女に「あなたの罪は赦された」(ルカ 7:48)と宣言された。ヨハネは「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(Ⅰヨハ 1:9)と述べている。パウロに与えられた恵みは永遠の命を得ようと願いつつ、その妨げとなる罪に悩む人々に対する手本となるためであった。今日、信じる者に与えられた恵みもまた、今の時代に生きる人々に対する手本である。主の恵みを証ししょう。

 

2021/12/21(火) 担当 ラウジー満世師 )ゼカリヤ書10:3 賛美 新聖歌80

 10:2では羊である民は羊飼いがいないので苦しむと語り、民を導くべき立場にある人々がその役割を果たせていないときに、そのもとにある民が苦しむと述べている。これに続いて神はイスラエルの指導者である羊飼いたちに対して神が怒りをあらわされると語る。実際にその裁きの実行が語られるのは11章になってからであるが、この箇所では不従順な指導者たちが裁きを受けると同時にその群れであるイスラエルの民と共に神がおられ、神が彼らを顧みて下さり、力を与えて助けて下さると述べられる。

 イスラエルの歴史によると、神によって選ばれた指導者が神から離れる時にはそのもとにある民もまた苦しむことが明確である。民は力なく神のさばきに服するのみだと見える。しかし神は力を持たない民の中に居る、神を愛する人々を覚えておられる。そしてこの群れに神が直接力を与えて立ち上がらせてくださると語る。けっして弱い者を忘れず、彼らの信仰を見て導いてくださる神がいることを覚えよう。そうして指導者の立場にいる者であれ、民の立場にいる者であれ、私たちも神に従い続ける者となろう。

 

2021/12/22(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ1:-17 新賛美 新聖歌 18

 この節においてパウロは賛美と頌栄の叫びをあげる。迫害者であったパウロ、迫害のためにダマスコに急いでいたパウロにご自身を示し、救いを得させ、召し、使徒としての尊い任務に就かせてくださった神、その時からこの時点に至るまで宣教者として幾多の試練と危機に遭遇するも、常に共にあって支え、守り、導いてくださった神を褒めたたえずにはおられなかったのである。実に、神は永遠の王、不滅で目に見えない唯一のお方であられ、栄光と讃美を受けるにふさわしい唯一のお方である。

コロナ禍に明け暮れ、人間の罪性の深刻さを見せつけた極悪非道な事件の相次いだ2021年も感謝礼拝を迎えようとしている。パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(?テサ5:16-18)と語っている。いかなる状況下にあっても、愛であり、永遠の王、不滅で目に見えない唯一のお方であられる神に栄光を帰し、感謝と讃美と祈りを献げよう。

 

2021/12/23(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書10:4-12 賛美 新聖歌81

 ここでは神がイスラエルの民と共に戦い、彼らを力づけて救いを与えられることが語られている。3節後半に述べられているとおり、神はユダの民を省みて力を与えて下さる。武器を持たない民に神が必要を満たし、指導者を与えてくださる。それゆえに民は勇士となり、戦いに勝利し、喜びにあふれる。6節でははっきりと神ご自身がこの戦いに共におられることが述べられる。神は民に力を与え、はるか昔の出エジプトの時代を思い起こさせ、かつてエジプトの地から約束の地へと導いてくださったように、今、諸国に離散している人々を約束の地に連れ帰ると言われる。このようなかつての理想的な状況が終わりの時に回復されることの背後には神の力が存在する。

 イスラエルの民は罪の結果捕囚の地に散らされていたが、そこから再び神の与えて下さった約束の地に彼らを連れ帰り、終わりの日に回復させていただくことは神の御業であった。自分では回復できない恵みと祝福を、神ご自身の愛と赦しと力によって成し遂げてくださる。今の時代、罪に苦しむ人々を回復させてくださるのも御子を与えられた神の愛の業による。御子の降誕を祝いつつ、主の恵みをよろこび、感謝しよう。

 

2021/12/24(金) 担当 高谷清師 詩 65:7-8  賛美 新聖歌 201

 詩人は「御力をもって山々を固く据え/雄々しさを身に帯びておられる方。大海のどよめき、波のどよめき/諸国の民の騒ぎを鎮める方。」と詠う。神が創造された天地、宇宙において人間(自身も神の被造物であるが)は様々な営みを続けてきた。多くの指導者が立ち、互いに戦い、盛衰を繰り返してきた。信仰無き歴史学者はそれらを様々に評価する。しかし聖書はその背後にある神の御意志と御計画を明らかにしている。エリフは「もし神が御自分にのみ、御心を留め/その霊と息吹を御自分に集められるなら/生きとし生けるものは直ちに息絶え/人間も塵に返るだろう。」(ヨブ 34:14-15)と語っている。詩編は「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」(詩46:9-12)と詠っている。まことに、神は愛であられ、全能者であられ、天地、宇宙万物の創造者にして支配者、維持者であられる。畏れをもって従おう。

 

2021/12/25(土) 担当 高谷清師 マタ 7:7-11 賛美 聖歌 273

 この箇所にはイエスの祈りへの招きの言葉が記されている。ヨハネによる福音書15章においてイエスはぶどうの木の譬を用いてご自身と弟子たちの関係について教えておられる。その中において「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハ15:2-5)と教えておられる。実に、イエスは私たちの父であり、命の源である。それ故、このお方はわたしたちに常に最良のものを与えてくださるのである。このお方を離れては、私たちに命はない。祈りこそ、私たちを父につながらせる管である。