2017/2/13-18

2017/2/13(月) 担当 高谷清師  ヨハネ 1: 35-42  賛美 新聖歌 233
 ヨハネは主イエスが初対面のシモンに向って『「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。』と記している。後になって主が弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われたのに対してぺトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのに対し主が『「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」』(マタ 16:17-18)と語っておられる。その後、主がご自分の死と復活を予告された際にぺトロはイエスをいさめ始め「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と語り、主から「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」との厳しい叱責を受けている。ペンテコステ以前のぺトロは、主が裁きを受けられる時主を否み、主の十字架の後には漁師の仕事に戻って行った。主が「ケファ――『岩』という意味」と名付けられた時、彼はその名にふさわしい者ではなかった。しかし、聖霊の注ぎを受けた後、彼は変えられ、不動の者とされ、死に至るまで忠実に従い教会の礎を据えていったのである。初めに主がシモンをケファ=ぺトロと呼ばれたとき主は、現実のシモンではなく、新しくされたケファ=ぺトロを見ておられたのである。パウロは「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」(?コリ 5: 16)と述べている。不完全な私たちをも主はこのように見てくださっていることを感謝しょう。また私たちもこのような視点で兄弟姉妹を見る者となろう。

2017/2/14(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書64:5-6 賛美 新聖歌 291
 4節では罪を犯した者をも神が御業によって救われると信仰を表明した。それに続いて私たちは救いの確信の言葉を聞くことを期待する。しかし再びイザヤ書は自分自身の罪を見つめる。自分の内に汚れを見出し、枯れ葉のように吹き飛ばされる存在となった。それにもかかわらず主を探し求める者もいない。霊的に神から遠ざかってしまっている。
 客観的にこのような告白を聞いていると、もどかしさを感じる。罪を犯して神から離れていることに気が付いたならば、罪を告白して神に立ち帰ればよいではないか、と。しかし現実には罪ある自分の姿を認識していながら神に頼らない者が多い。神を知らないから頼れない人々には福音を伝えよう。自らの罪深さにおののいて神の前に出られない人には神の愛の深さを分かち合おう。なおも神に反抗する者のためには心が砕かれるために祈ろう。同時に自分自身をも見つめなおし、神の御そば近く引き寄せられるよう祈り求めよう。

2017/2/15(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 1: 43-44  賛美 新聖歌 196
 この箇所にはフィリポの召命が記されている。フィリポは主イエスから直接「わたしに従いなさい」と言われ、従って行ったのである。この箇所についてジョン・C・ライルは『「わたしに従って来なさい」――この簡素な文章は、全能の救い主から直接発せられた、人の魂にいのちを与える声を記録している。聖霊の力が主のことばとともにあったこと、またこのことばが発せられるや、ピリポは、取税人マタイと同様に立ち上がり、すべてを捨てて弟子となったことは明らかである。回心においては、神は主権者として働かれる。ひとりひとり、召され方は異なる。ロロックはこの節について次のように述べている。「この記録は、キリストが、天の御国に入れることをよしとされる者は誰でも、天使や人間の仲介的働きなしに召し出すことができるということを教えている。」(ライル福音書講解ヨハネ1P129聖書図書刊行会1987)』と述べている。人は召され、救われる様はいろいろである。私たちは常に執り成しの祈りをささげよう。

2017/2/16(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書64:7-11 賛美 新聖歌 282
 7節冒頭の「しかし」という言葉が転換点となる。罪深く、神から離れている姿を認識した者が、神の臨在を感じられない時にもなお神が自分にとって親しみ深い父であり、壊しても作り直してくださる陶工だという。怒り続ける神ではなく、深く憐れんでなお恵みを増し加えてくださる神に大胆に赦しを求めている。目に見える形としての神殿はなくなったとしても、なお神が近くにおられることを知り、大胆に神に赦しを求めていく。このような信仰は過去に神がしてくださった恵みの御業を思い返すときに湧き上がってくる。私たちは常に神の恵みを思い返そう。そしていかなる時にも神が恵みと憐れみをもって忍耐強く導いてくださることを思い起こし、神の導きと赦しを求めて信仰によって歩もう。

2017/2/17(金) 担当 高谷清師  詩編30: 5-6 賛美 聖歌 128
 神の奇跡的な御業によって死の危機から助け出されたダビデは「主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。」と呼びかける。主イエスは「見失った羊」のたとえの箇所で「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。(ルカ 15:5-6)」と語っておられる。パウロは「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(?コリ12: 26)「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」(?コリ11: 29)と述べている。聖徒の一人に与えられた喜びは教会の喜びであり、聖徒の一人苦しみは教会の苦しみである。それ故パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ロマ 12: 15)と教えている。受けた恵みを証し、喜びを分かち合い、共に重荷を負い、キリストの愛によって結ばれた共同体となろう。

2017/2/18(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 12:41-44 新聖歌 359
 シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネはイエスに召され、弟子として仕えていました。一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行きました。その時シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話しました。これを聞かれたイエス様が彼女のそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなしました。
この記事を読むとき、主はご自身を信じる者に対して憐れみと恵みを注いでくださることがわかります。どんな時にも信じて従いましょう。”,,820″