2014/9/15-20

2014/9/15 (月) 担当 高谷清師 ?コリ10:7  賛美 新聖歌 372
 モーセに率いられてエジプトを出た成人60万余りの人々のうち、約束の地に入ったのはたったの2人であった。それ以外の人々は入ることが出来なかったのである。それは彼らの罪のためであった。これについてパウロは「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために」と記している。それらの悪の第一は偶像礼拝である。パウロは『彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります』と述べている。出エジプト記を見ると、アロンに金の子牛を作らせたイスラエルの民は「彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた(出32:6)」のである。異教の民は偶像礼拝を行った後、偶像のために祝宴を設けたのである。コリントのキリスト者のある者たちはこの祝宴に参加し、「知識を持っている」と豪語していた。それによって「弱い人々」を躓かせていたのである。私たちの国も秋祭りの季節を迎える。神事(偶像礼拝)の後、様々なイベントや祝宴が開かれる。これらとの関りについて熟慮が求められる。

2014/9/16(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上29:1-9  賛美 新聖歌166  
 いよいよ歴代誌上の最後の章である。ここにはダビデが全会衆を前にして語った言葉が再度記されている。この言葉の中で最初にダビデが取り上げているのは次いで王になるソロモンと、神殿建築である。ソロモンは主に選ばれてこの大事業にとりかかるが、これは彼一人の事業ではなく、イスラエルの民全体で取り組む事業である。これまで読んできたように、ダビデは神殿を建築するために必要な資材を調達し、準備をしてきた。そして彼の生涯の最後に至って、自らもこの神殿建築のために様々なものを献げた。リーダーであるダビデ自身が献げた上で会衆に献げることを勧めている。それはダビデとソロモンへの献げものではなく、神への献げものであった。
 このことから私たちは今日の献金についても大切なことを教えられる。神に献げものを献げるとき、それはリーダーに差し出すものとして献げるのではない。ダビデやソロモンがかつてイスラエルのリーダーとして立てられたように、今日の牧師は神に立てられ、民と共に神に仕える者である。その中での役割を与えられた指導者である。献げものを受ける方は神だけであることを教会はしっかり覚え、神への感謝をもって献げよう。

2014/9/17 (水) 担当 高谷清師 ?コリ10: 8 賛美 新聖歌 372
 悪の第二はみだらなことを行うことである。パウロは「みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました」と述べる。これは、ペオルでの背教(民25:1-9)にもとづいている。民25: 3では「イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた」と記されている。ここからは、イスラエルに臨んだ裁きの原因は偶像礼拝であったように見える。しかし2節には「娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ」と記されている。イスラエルがバアル礼拝に陥ったのはモアブの娘たちの誘惑によるものであった。即ち、イスラエルがみだらなことをしたためであった。「この災害で死んだ者は二万四千人であった(民25:9)」と記されている。これによって「みだらな行い」が、神の前にいかに重大な罪であるかがわかる。これはイスラエルの偉大な王・ソロモンの晩年においても見られるものであり、今日においても人々の陥りやすい罪である。細心の注意を払うとともに、常に神の守りを求めつつ、歩もう。

2014/9/18(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上29:10-20  賛美 新聖歌170  
 続いてダビデは祈りを捧げる。この祈りの冒頭でダビデは主がほめたたえられるようにと述べる。神の偉大さ、力、光輝、威光、栄光が主のものである(29:11)と祈る。これは現代の教会のなかで用いられる主の祈りの最後の部分と同じ内容である。神への讃美は祈りの最後にだけ置かれるのではない。ダビデは神への祈りを神への賛美をもって始めている。神はすべての支配者であることをのべ、神の力を讃美している。さらに神の前に立つ自分自身とすべての人が、決して神とは同列に立つ者ではないことをはっきり語っている。人間がどれほどの偉業を成し遂げても、それは神の御手の業である。人がどれほど努力して成功を収めても、すべては神の恵みである。
 絶えず神への讃美が溢れているだろうか。神への賛美は、神の前に立つ人間である私たちはすべて神の御手の中に生かされていること、神の偉大さに比べて人間が小さく、朽ちるべき存在であることを本当に認めたときに初めてあふれ出る。今日も讃美の絶えない一日を過ごそう。

2014/9/19(金) 担当 高谷清師 ?コリ10:9  賛美 ほめよ13
 続いて「彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう」と言われている。そして、試みた者は、蛇にかまれて滅びたのである。これは民数記21:5−6に記されている出来事である。この箇所についてカルヴァンは「民はあまりにもながい間、同じ状態のままであることに耐えがたくなって、自分の境遇に不平をもらし、神にむかつて、 〈どうしてあなたは、わたしたちをあざむかれたのですか……〉などとつぶやきはじめた)。パウロは、民のこのつぶやきを、こころみと呼ぶのではあるが、それは、理由のないことでない。こころみるのは、忍耐と正反対のことだからである。ところで、その時、民が神にさからうにいたった原因は、しっこい・度はずれの欲望に動かされて、神の定められた時を辛抱づよく待ちのぞむことができなかったからではなかったろうか。それゆえ、わたしたちが神の御こころに先行しようとしたり、神の支配に服しないばかりか、かえって自分の快楽と気ままに神を従わせようとする不忍耐こそ、悪の源泉なのだと銘記していたい(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P231新教出版社)」と述べている。今日の宣教状況を見るとき、この誘惑にかられる。しかし信仰の目を大きく見開き、キリストを見詰め、忍耐をもって神の時を待ち望もう。

2014/9/20(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハネ21:20-23 新聖歌394
 イエスが復活した後で弟子たちに現れたのはこれでもう三度目でした(21:14)。このとき、弟子たちは不信仰に陥り、不安で孤独な毎日を送っていました。よみがえられた主はペトロに会い、「私に従いなさい」と言われました。ペトロは弟子たちと共にイエスに仕えてきたヨハネのことが気にかかり、「主よ。この人はどうですか。」と尋ねました。これに対して主は「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」と答えられました。
 私たちが信仰生活を送っていく中で、ほかの人のことが気にかかります。この人はなぜ集会を休むのだろうか、あの人はなぜ奉仕をしないのか、と批判をします。しかし主は「あなたは私に従いなさい」と言われます。クリスチャンが主に従うことは周りの人の態度に関係ないのです。自分と主との関係において全身全霊をもって従うのです。”,,1184″