2014/12/1-6

2014/12/1 (月) 担当 高谷清師 ?コリ12:27-31a  賛美 新聖歌 392
 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と述べて、キリスト者一人一人はキリストの体である教会を構成する部分であることを明らかにする。教会には使徒、預言者、教師、奇跡を行う者、病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者など、の奉仕者が必要であり、神は教会を構成する部分である一人一人に賜を与え、その任務に任じられたのである。皆が使徒であるのではない。皆が預言者であるのではない。皆が奇跡を行う者であるのではない。・・・・・。私たち一人一人は与えられた賜物と任務の故に高慢になったり卑屈になったりすべきではない。与えられた賜物と任務に従って忠実に仕えるべきである。また、兄弟姉妹を尊ぶべきである。今日も主を仰ぎ、感謝と喜びをもって主に仕えよう。

2014/12/2(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下12:1-8  賛美 新聖歌 282  
 波乱のうちに始まったレハブアムの治世であったが、状況は一旦落ち着き、神が繁栄を与えられた(11章)。しかしまたもや12章は否定的な報告で始まる。今までにもたやすく人の言葉によって影響され、神に忠実であり続けなかったレハブアムがまたもや主の律法を捨てたというのである(12:1)。人は神から祝福受けたらどのように感じ、どのような生き方を選ぶだろうか。私たちは多く祝福を与えられた者は多く神に感謝すると考えるだろう。しかしレハブアムは繁栄と安定を得た時、神の恵みを忘れ去って神に信頼を置くことを止め、自分を信じてしまった。それゆえにエジプトがユダに攻め入ったと歴代誌は述べている。この時のエジプトの攻撃は歴史的にも証拠が残っている事実である。歴代誌が私たちに教えていることは、すべては神が背後にあって起こっていることであり、神への従順を捨てた時に懲らしめ、裁きとして起こったということである。
 「私はたやすく神の恵みを忘れて神に背いたりしない。」と私たちは考えるかもしれない。しかし「苦しいときの神頼み」や「喉元過ぎれば熱さを忘れる」との諺にもある通り、苦境では神に頼っても、恵みによってそこを抜けだせば自分の力ですべてを成し遂げたようにふるまってしまうのは人間の罪性であろう。恵みを豊かに受けるときにも神からの祝福であることを忘れず、常に神と共に歩もう。

2014/12/3 (水) 担当 高谷清師 ?コリ12:27-31a  賛美 新聖歌 392
 ここでパウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と勧める。これについてレオン・モリスは「神が与えようとお選びにならないなら、彼らはそれらの賜物を得ることはできないのである。しかし思うに、彼らの熱心な願いと、受けるにふさわしい者に自分自身を整えることが、少なくともある程度の場合においては、受け取る前提条件なのだと、パウロは見ているのである」((ティンデル聖書注解コリント人への手紙第1P214いのちのことば社)」と述べている。私たちが社会において教師を目指すなら、教育学部に入り、熱心に学ぶであろう。技術者を目指すなら、一工員として働いていても、その余暇を無為に過ごさず、専門書を読み、学びに費やすであろう。同様に、主の体なる教会の成長と栄光のために用いられることを願うなら、それにふさわしい者として整えられるように励むのである。

2014/12/4(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下12:7-16  賛美 新聖歌344
 エジプトが攻めてきたのも神の業であれば、ユダが滅ぼし尽くされなかったのも神の御心によると述べられている。なぜ神はユダを救われたのか。それは預言者の言葉を聞いた将軍たちと王がへりくだったからである。傲慢を捨てて神を受け入れたからである。人々がへりくだった時に神は注ごうとしておられた怒りを思い直してくださった(12:7)。しかし、すべてが元通りになったわけではない。8節に述べられている様に、エルサレムはこれから先、神に仕えることと地の王国に仕えることとの違いを知らなければならないのである。つまり、地の王国の支配を受けねばならないという責任は残ったのである。
 人が悔い改めるとき、神は赦してくださる。しかし、間違ったことをしてしまったその責任は問われることがあり、またその行動の故に私たちが責任を持って学ばなければならないという事態が発生することはあるのである。『赦してくださる神』に甘えて無責任な歩みをすることがないよう、今日も主の御心を求め、正しく生きることを実践しよう。

2014/12/5(金) 担当 高谷清師 ?コリ12:27-31a  賛美 新聖歌 179
パウロが「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と勧めていることについてカルヴァンは「コリント人たちの間では、他の人に益となることよりも、自分を誇示することにつとめるという悪習が支配的であった。そういうわけで,預言の賜物などは心にかけられていなかった。ただ、種々の異言だけは、実に壮大に鳴りひびいていたが、益をもたらすことはほとんどなかった。ともあれ、かれの言っていることは、各自が 預言したり・教師の地位につくように熱望せよという意味ではない。ただ,全体の徳を高めることを心にかけよ、と説きすすめているのである。それは、さらに有益な事柄においても、かれらがーそう熱心に力をつくすようになるためである。」(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P300新教出版社)と述べている。
現代は自己PRの時代と言われる。巷には「自分を売り込め」と言う言葉が飛び交い、自分を誇示することに熱心であるが、全体の徳を高めること、他者の益への配慮は失われている。しかし御言葉は不変である。常に、主にあって他者を思いやって生きよう。

2014/11/29(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 5:27-32 賛美 新聖歌 176
 イエスは召しに応じて弟子となった徴税人レビの家で宴席についておられた。主の弟子たちや大勢の徴税人や他の人々も同席していた。これを見たファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」とイエスの弟子たちに言った。ファリサイ派と言うのは主の律法を文字通り厳格に守って義人として生きようとしている人々であった。彼らは律法を厳格に、文字通りに守ることが出来ない人々を罪びとと呼び、徴税人たちと同じように交わりをしなかったのである。従ってイエスが大勢の徴税人や他の人々と食卓を共にしておられる光景はファリサイ人たちの目には奇異に映ったのである。このつぶやきに対して主は「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」とお答えになった。主は罪びとを悔い改めに導き、自らの血潮をもって義とするために来てくださったお方である。”,,1152″