2014/12/8-13

2014/12/8 (月) 担当 高谷清師 ?コリ13:1-3  賛美 新聖歌 214
 「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と勧めたパウロは「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と語る。そして「最高の道」とは「愛」である。この愛についてヨハネは「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(?コリ13:1-3)」と述べている。ここでいう「愛」とはキリストにおいて顕された神の愛であり、無償で与えられる愛、見返りを求めない愛、全ての人―善人だけではなく、いかなる罪人にも与えられる愛である。この愛は神から出るものであって、私たちの内にはその源はない。神につながることによってのみ、持つことが出来るのである。

2014/12/9(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下13:1-12  賛美 新聖歌320  
 南王国ではレハブアムの死後、アビヤが王となった。アビヤの時代は北王国との戦いが続いた。歴代誌はこのアビヤの短い治世に起こった北王国との戦いについて語っている。この戦いにおいてアビヤは北の王、ヤロブアム個人に向けてではなく、北王国のすべての人々に呼びかけ(13:4)、神が正当な王権を与えられたのはダビデの子孫に対してであり、それは南王国であると述べる。さらに、ヤロブアムは主を捨てて偶像礼拝に陥っていることを指摘したうえで、南王国でこそアロンの祭司の家系が守られており、レビ人も律法に定められた通り仕えていると述べる。北とは対照的に南王国では正しい礼拝が守られていると語る。
 ここでアビヤは神が北か南かどちらを選ばれるかとは議論していない。むしろ、北王国の民ではなく、南王国の民こそが真の神に仕え続けることを選び、神に忠実であり続けることを選んでいると述べる。神との関係において大切なのは、誰が神に選ばれているかよりも、人が神を第一とし、忠実に歩んでいるのは誰かということである。私たちも問うべきは「私は今日神を第一としているか?」であって「神が今日私を選んでくださっているか?」ではない。神の恵みに応えて信仰によって神に忠実に歩む一日を過ごそう。

2014/12/10(水) 担当 高谷清師 ?コリ13:1-3  賛美 新聖歌 225
 この箇所においてパウロは愛の重要性について語る。まず最初に「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」と語る。人が異言の賜を与えられ、それによって神の奥義を語り、神を賛美することが出来たとしても、そこに愛がなければ騒がしいだけで無意味である。このことについて小畑進は「異言そのものはパウロ自身もいただいた貴い御霊の賜物です。けれども、それを愛の道において行使しないときには、賜物自体が汚され、賜物を授けたもうた神の御意にも逆らっていることを知らなければなりません。(コリント人への手紙第一提唱P557いのちのことば社)」と述べている。異言の賜も、御言葉を語ることも、愛によってなされるときのみ、生きたものとなるのである。

2014/12/11(木) 担当 ラウジー満世師 代誌下13:13-23  賛美 新聖歌171  
 13章のはじめから語られているアビヤの治世に起こった北王国ヤロブアムとの戦いにおいて、アビヤは北王国の民全員に対して、神に対して忠実であり続け、正当な礼拝を守っているのは南王国であると語り、神と戦ってはならないと呼びかけた(13:13)。しかし、この説得の間にもヤロブアムは着々と戦略を立てて戦闘の準備をしていた。伏兵をアビヤの軍の背後に配置し、前後から挟み撃ちにする手はずを整えていた。アビヤの軍が気づいたときにはもう包囲されていた。戦いにおいてはヤロブアムが何枚も上手であり、常識的に考えると南王国には勝ち目がなさそうである。それでも神との関係を正しく保っている南王国の祭司がラッパを吹き、民が鬨の声を上げると、「神は彼らをユダの人々の手に渡された」(13:16)のである。
 神はご自身を頼みとするユダを守り、勝利を与えてくださった。神の言葉を守り、正しい関係を忠実に保ち、仕える者を神は顧みてくださる。

2014/12/12(金) 担当 高谷清師 ?コリ13:1-3  賛美 新聖歌 269
 続いてパウロは「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」と語る。12章28節においてパウロは、預言者を使徒に次いで重んじたが、その預言さえも、愛がなければ、無に等しいと言うのである。「あらゆる知識」とは人知を尽くして知り得る知識であり「あらゆる神秘」とは神の啓示によってのみ知り得る事柄である。この箇所についても小畑進は「バラム、サウル王、大祭司カヤパらは、折角預言の賜物を与えられておりながら、何たるていたらくだったことでしょうか。愛の道においてその賜物を受けず、愛の道において行使しなかったからです。(中略)へロデ王が、東方の博士たちの訪問を受けて恐れ惑い、「キリストはどこに生まれるのか」と問うたのに対して、「ユダヤのベツレへムです。預言者によってこう書かれているからです。・・・・・」とスラスラ答えて、一歩たりともベツレへムに足を向けなかった当時の祭司長・学者たちの知識も奥義も、ついに聖書読みの聖書知らずで終わったのでした(コリント人への手紙第一提唱P557-558いのちのことば社)」と述べている。賜物は愛において用いられる時のみ、その使命を果たす。

2014/12/13(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 5:27-32 賛美 新聖歌 176
 主イエスは祈るために神殿に入られた。そこで主は礼拝のためにやってくる人々を目当てに両替をしたり鳩を売ったりして暴利をむさぼっている人々をご覧になった。彼らが聖なる場所を自分の肉の欲望を追求する場所として利用しているのを見て怒り、「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」と言い、彼らを神殿から追い出された。
神殿は神が臨在なさる聖なる場所であり、神を礼拝する場所である。そこでは何よりもまず神との交わりを求めるべきである。今日の教会もまた神を礼拝する場所なのです。私たちは教会において自分の肉の思いではなく、神の御心を求め、御心に従う生活おくりましょう。”,,1157″