2014/11/24-29

2014/11/24 (月) 担当 高谷清師 ?コリ12:12-13  賛美 聖歌 501
 教会はキリストを頭とする、キリストの体であると言われる。パウロは「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」と述べて、一つであるキリストの体には多くの働きがあり、務めがあり、それに応じて種々の賜を与えられた人々によって教会が構成されていることを述べる。また、教会はユダヤ人やギリシア人、自由な身分の者や奴隷によって構成されていた。そのように多様な人種、社会的身分の人々によって構成されていたが、彼らは一つの霊によって召された故に一つとされているのである。今日、私たちは多くの教派教団に分かれて活動している。また貧者や富者、高学歴者等多様な社会階層の人々によって構成されている。この状況の中でその分かれている意味―神の御心を自覚し、互いに愛と尊敬をもって共に主の栄光のために仕えるべきである。

2014/11/25(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下11:1-12  賛美 新聖歌247  
 王国が分裂した後、レハブアムはエルサレムに戻って北10部族との戦争の準備を始めたが、これはシェマヤを通して与えられた神のことばによってとどめられた。王国の分裂は政治的な事情によるだけではなく、まさにすべてのことは神の計らいであったのである(11:4)。神がことを定め、行われるとき、それがレハブアムの目に満足でない場合でも、受け入れるのである。神は必ずしも信じる者たちが望む通りに行動されるわけではないし、また注文通りに望みの品を与える方ではない。ご自分の主権において御心にかなうことを定め、行われるのである。レハブアムは軍事力を固め、南王国の防備は整えられ、国は力をつけていったことからも、彼が北王国を攻める力がなくて奪回をあきらめたのではなく、神の計らいであるがゆえに受け入れていったことが分かる。
 私たちは自由に神に願い求めることが許されている。しかし同時にその願いにどのように答えてくださるのかは神が主権を持ってお決めになることである。示された神のみ言葉を受け入れ、従おう。

2014/11/26 (水) 担当 高谷清師 ?コリ12:14-26  賛美 新聖歌 156
 教会は人体にたとえられる。人体には多くの部分によって成り立っている。足、手、耳、目、・・・・・等々。そして各々の部分はそれぞれの役割を担っている。それらの役割は常に人々の注目と称賛を浴びるものもあれば、目立たず人々から忘れられ無視される縁の下の力持ち的なものもある。しかし各々の役割は体の生存と成長にとって不可欠のものである。神は御心のままにその役割を各人に与えられたのである。従って人々が注目し尊ぶ働きを与えられた者は高慢になって縁の下の力持ち的役割を与えられた者を軽んじてはならない。縁の下の力持ち的役割を与えられた者は卑屈になってはならない。互いに相手を認め合い、尊重し合い、愛し合い、主の栄光のために仕えていこう。

2014/11/27(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下11:13-23  賛美 新聖歌325  
 分裂後にヤロブアムのもとに集まった北王国の状況が記されている。列王記上12:26-33によるとヤロブアムはベテルとダンに聖所を建てて金の子牛の像を置き、独自の祭司を選んだ。主を捨て、レビ人を捨てたのである。それゆえに忠実なレビ人や祭司たちは南王国にやってきた。北王国は信仰的には分裂直後の時点で神から離れている。北王国が律法に反する礼拝を始めた一方、南王国では正しい礼拝が守られていった。背信の罪を犯した北王国と神に忠実であり続け、正しい礼拝を守り続けていった南王国の姿が対照的に描かれている。ソロモンの祈りに神が答えられた通り、民が忠実である限り、神の祝福はとどまる。この理解に立って歴代誌は真のイスラエルである南王国をしばしばイスラエルと呼び、その歴史をたどる。
 神の祝福を受け継ぐ者は心から神の定めを守り、行う人々である。

2014/11/28(金) 担当 高谷清師 ?コリ12:14-26  賛美 新聖歌 154
 パウロは「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」と述べる。私たちの体もある器官が病むとその期間だけにとどまらず全身症状を引き起こし、全身が痛む。そして他の器官の病を誘発する。ロマ書においてパウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい(ロマ12:15)」と勧めている。兄弟愛を深め、互いに祈り合い、痛みと喜びを共有しつつ、励まし合って進もう。

2014/11/29(土) 担当 高谷由紀子師 フィリピ4:6-7
 クリスチャンだからと言って現実の生活に苦難や困難や問題に遭わないということではありません。しかし、クリスチャンは様々な苦難や問題を一人で抱え込んで思い悩むのではなく、神に訴えることができます。実際にこれを書いているパウロも獄中にあり、苦難を受けていた時にこのように勧めているのです。私たちが神に訴えるとき、神は全知、全能で愛に満ちたお方ですから、あらゆる人知を超える神の平和をもって私たちを守ってくださいます。この守りは実に、神ご自身から来るのです。このことを覚えているときに、私たちは安心して神に祈り、近づくことができます。”,,1138″