2020/6/29-7/4
- 2020.06.29
- ディボーションの友
2020/6/29(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:28-32 賛美 新聖歌 494
ヨハネは「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」と記している。イエスはかつて「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」(マタ 20:18-19)と語られた。この箇所についてカルヴァンは「神の子のこの断罪によって、わたしたちの断罪が神の前に消し去られたのである。それというのも、それによって、人類をみずからに和解させることを、天の父は是認したからである、と。このことを思うだけで、わたしたちは勇気づけられ、高められて、ためらわず大胆に、イエス・キリストの汚辱のうちにみずからを誇ることができる。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書下P577新教出版社1965)と記している。またジークフリート・シュルツは「イエスが暴徒に対するロ−マ独自の処刑たる十字架刑で死んだのは、イエス自身の予告に基づくものだ、ということが付け加えられる。ユダヤ式に処刑すれば、石打ち刑だったであろう(行七訂以下におけるステパノの石打ちを参照)。」(NTD新約聖書註解(4)ヨハネによる福音書P435 NTD新約聖書註解刊行会1975)と記している。イエスの十字架による死はイエスの父なる神への従順に基づく意志によるものであり、それによって贖いの御業が成就したのである。心からの感謝をもって十字架を仰ごう。
2020/6/30(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:16 賛美 新聖歌21
突然の嵐に見舞われた船乗りたちはそれがヨナの神からの逃亡によって起こったことを知りながらも、あらゆる手立てを講じて最悪の結末を避けようと努力した。しかし豊富な経験をもってしても神の力には抗えないことを知った彼らはついにヨナを海に放り込んだところ、嵐が急に静まった。真の神を信じていない船乗りたちでさえも、ヨナの信じる天地創造の神の偉大な力を目の当たりにして到底人間の力の及ぶ方ではないと知って畏れた。彼らの感情はお化けを怖がり、突然の物音に驚くようなものではなかった。彼らは、神の偉大な力を目の当たりにして圧倒され、自然をも支配なさる力をもってご計画を貫き、召しに従うことを求める神に対する畏敬の念を持ったのであった。この恐れが全く神を知らなかった者たちを礼拝へと導いた。
み言葉に親しみ、祈りの中で日々神に近づく私たちはこれほどの畏れを持っているだろうか。神は神であって人ではない。この神を愛し、畏れ、敬うことが信仰の一歩である。
2020/7/1(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:33-38 賛美 聖歌 501
ユダヤ人たちがイエスを訴えているのは、彼らの律法の問題と妬みによるものであることを知ったピラトは、ユダヤ人たちに「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言ってこの問題にかかわることを回避しょうとした。しかし、それに失敗するとピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。するとイエスは「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」と問い返された。そしてイエスは「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」とお答えになった。
イエスは御国の王であられる。しかしその御国は天に属するものであってこの世に属してはいない。それ故に部下たちはイエスをユダヤ人に引き渡されないように戦わなかったのである。
イエスの贖いの御業を信じ御国の民とされた者は世に在りながら世に属してはいないのである。従って世の価値基準によって歩んではならない。御国の価値基準によって、即ち聖霊によって説き明かされる御言葉によって歩むべきである。
2020/7/2(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書2:1-2 賛美 新聖歌355
海へ放り込まれたヨナはどうなったのだろうか。「ヨナ物語」としてよく知られている巨大な魚が登場する。しばしば私たちが聞くヨナの話によると、突然どこからともなく大きな魚が現れて、その腹の中で三日間が経過したら陸地に吐き出されたという筋書きであり、三日間の出来事に焦点が当てられないことが多い。しかしここには大切なことがある。第一に魚を遣わしたのは主であるということを忘れてはいけない。神の召しを受けたにもかかわらず答えもせずに全力で逃げた『預言者』ヨナを神は見捨てることなく守られ、時間を与えられた。神は選んだ者に正しく応答するチャンスを再度与えてくださった。第二に、ヨナが神の前に立ったということである。魚の腹の中まで行って、ヨナはついによく知っていた自分の神、主に祈った。ついに心を開き、神と共に歩むという地点に立ち帰った。
神を信じていながら神から逃げようとすると聞くと、そんな愚かなことを私はしないと言いたくなるかもしれない。しかし実際の信仰生活で私たちは何度そのような誘惑にとらわれているだろうか。何度神から逃げようとしているだろうか。常に神に心を開き、神と共に歩もう。
2020/7/3(金) 担当 高谷清師 詩 54:1-5 賛美 新聖歌 427
作者は「異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。」と詠う。カルヴァンはこの箇所を「見知らぬ人々が、わたしに逆らい立ち、/恐るべき人々が、わたしの魂を求めているからです。彼らはけっして神をその自の前に置くことをしません。」と訳し「この語によってダビデは、彼らの法外で残酷な野蛮行為に言及しているように、わたしには感ぜられる。多くの人々の考えるところでは、ダビデが彼らを「見知らぬ人々」と呼んでいるのは、彼らがアブラハムの真実の子ではなくて、神への愛と恐れとを放棄し異邦人と同じ世俗的腐敗へと迷い出た、私腹の子だからである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P208−209新教出版社1971)と述べている。
ダビデを迫害したのは同じイスラエル人であり、かつて神に選ばれ、立てられた者であった。聖書に忠実に生きようとした宗教改革者たちを迫害したのはイエスの名をかたる者たちであった。このことはサウルや宗教改革時代の大組織だけではなく、イエスを裏切ったユダのように、小さな事件として日常茶飯事に起こりうるのである。それ故イエスは「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタ 10: 16)と教えられる。常に私利私欲に曇らされず、聖霊に満たされた澄んだ目をもって歩もう。
2020/7/4(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 2:13-17 賛美 新聖歌 311
イエスは通りがかりにアルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。この招きに応じてレビはイエスに従った。ある日、レビはイエス様一行を招いて食事の席を設けた。そこにはイエス様と弟子たちと共にレビの同僚であった徴税人や罪人も同席していた。この光景を目にしたファリサイ派の律法学者は、弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた。
世の人々は自分の正しさを示すために罪人との交わりを断とうとする。しかし、イエスは罪人を招いて悔い改めさせ、義とする為に来てくださった。イエスに来る人はすべて、彼によって義とされるのである。
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