2018/11/19-24

2018/11/19 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:22-30 賛美 新聖歌 224
 「わたしの羊」がどのような者であるかを語られたイエスは、続いて彼らの特権について「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」と語られる。この箇所についてカルヴァンは「わたしたちの救いが確固として確実なものであるのは、それが神の手のうちにあるからである。それというのも、わたしたちの信仰は虚弱なものであり、またわたしたちはあまりにも動揺しやすい性質をもっているからである。しかし、わたしたちをその庇護のもとにうけ入れた神は、その息吹きだけで、わたしたちの敵どもの気ちがいじみた好計や謀略を、すべて消滅させることができるほどに力強く、揺ぎない者である。わたしたちはそこに目をむけ、さまざまな誘惑の恐怖に、勇気を失うことのないようにしなければならない。それというのも、わたしたちの主イエス自身、わたしたちに、狼どものあいだにとどまっていながら、どうして羊たちが安心していられるか、その方法を明示しようとしたからである。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書下新教出版社1965上P360)と記している。私たちに与えられている永遠の命は私たちに依拠しているのではなく、全能にして永遠なる方に依拠しているのである。全幅の信頼をもって歩もう。

2018/11/20(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書44:14-19 賛美 新聖歌178
 人びとは明確にエレミヤに反論している。偶像礼拝を止めてただ主だけを礼拝しなければ、主が災いをくだされると語ったエレミヤに対して、人びとは全く対立する主張を行った。驚くことに、彼らは天の女王への礼拝を止めたからこそ災いが降りかかったと語る。神の民であるイスラエルの人々が、主に信頼して歩むことよりも偶像礼拝に信頼を置いてしまっている。人々は主を礼拝することを拒んだという意識はなかったかもしれないが、同時に災いから逃れているのは偶像礼拝のおかげだと考えている。どれほど真の神だけを礼拝しなさいという十戒からほど遠く隔たっているかと驚きを隠せない。
 真の神を否定するのではなく、それに加えて偶像礼拝の真っただ中で、人びとが罪を犯していることに気付くことが難しい。この現状を指摘されたときに素直に悔い改めることも、なおさら困難になる。しかし主の戒めはただ主だけを礼拝せよと教えることを心に留めたい。

2018/11/21(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:22-30 賛美 新聖歌 236
 イエスは「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」と語られる。この箇所についてジョン・C・ライルは「|主は今語られた力強い約束をさらに強めるために、御自分の羊がただ御自分のものだけではなく父のものでもあると言われた。父が彼らを子・キリストにくださったのである。「わたしの父は力があり、すべてにまさって偉大なすべての権威を持っておられるお方です。誰もわたしの父の手から「どんなものも」取り去ることはできません。だからわたしの羊の安全は二重に守られています。(ライル福音書講解ヨハネ2P517聖書図書刊行会1987)」と述べている。そしてイエスは「わたしと父とは一つである。」と語られる。この言葉について岩波訳は「31-33節の反応を見ると、5:18と同様、敵対者はこれを自分を神と等しいものにしたととっているが、意志の一致、全き従順ととることも可能。」との注釈を付している。私たちに永遠の命を賜るのは御子イエスの御心であり、父なる神の御心である。私たちの賜った恵は神の御心の確かさを感謝しょう。

2018/11/22(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書44:20-30 賛美 新聖歌253
 エレミヤと民は真っ向から対立する。人々はエレミヤの言葉に全く耳を傾けない。これほど頑なな人々に対してエレミヤはもはや説得する言葉を語らない。ただ神の裁きが迫っていることを譲歩なく、もう一度告げるだけである。人びとが天の女王への誓いと犠牲の義務に縛られているときに、預言者ははるかに大切な神の律法と教えに従うことを再び語る。その上で、全く心を開かない人々に対して自分勝手に生きればよいと述べて、罪を犯し続けるままにさせる。
 神はそれぞれの時代において神を信じて従う人々が正しい歩みに留まることができるようにみ言葉を通して警告し、愛情をもって正しい道へと導かれる。しかし人びとがその言葉に一切耳を貸さず、従わないならば、最終的に裁きが告げられるだけである。私たちも心を頑なにして主の導きを拒みつづけることがないよう、祈りとみ言葉の生活の中で主に導かれて歩もう。

2018/11/23(金) 担当 高谷清師  詩 40:2-4a 新聖歌 445
 表題においてこの詩はダビデに帰されている。2節の「主にのみ、わたしは望みをおいていた」と訳されている部分を新改訳は「私は切なる思いで主を待ち望んだ」ヴァイザーは「切なる思いで、わたしは主を待ち望んだ。」カルヴァンは「わたしは耐えに耐えて(あるいは「忍耐強」1)主を待ち望みました」と訳している。この箇所についてカルヴァンは「たとえ主が、その助けを遷延されたとしても、ダビデの勇気が苦悩のゆえに冷却することはなかったので、その忍耐の証左を示したのちには、ついに聴き入れられたのである」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P33教出版社1971)と述べている。長引く苦難にも関わらず、神に望みを置く忍耐強い祈りを神は聞き入れ、滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ、岩の上に立たせくださったのである。主イエスは「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ 11:9-10)と教えておられる。長引く試練のうちにある時にも忍耐強く祈り続けよう。主は必ず聞いてくださる。

2018/11/24(土)担当 高谷由紀子師 箴 30:25 賛美 新聖歌 321
 夏真っ盛りの暑い時、キリギリスは声高らかに歌い、楽しい毎日を過ごしていました。その足元で蟻は汗を流して自分の体より大きい荷物を運んで働いていました。そうしているうちに冬がやってきました。蟻は夏の間一生懸命働いて貯えておいた食べ物があったので困ることなく、厳しい寒さにも命を保ち続けることが出来ました。キリギリスは食べ物が無くてとうとう死んでしまいました。蟻は歌って遊ぶこともなく、力もありません。しかし、夏の間、冬に備えて働いていたことで命を長らえました。蟻は「暑いから」「また後で」「明日に」と、今日為すべきことを明日に延しませんでした。聖書は「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレト 3:1)と告げています。今の時の為すべきことを怠ることなく日々を過ごしましょう。”,,524″