2016/4/25-30

2016/4/25 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ3:15-16 賛美 新聖歌 445
 「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」と語ったぺトロは、弁明の仕方について「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」と語る。主イエスは復活の後、昇天を前にして弟子たちに「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」と語られた。この言葉を誤解してはならない。信じない者に滅びの宣言をされるのは主であって私たちではない。私たちが信仰による希望を証しするのは、現時点において信じていない人々に対してであって、滅びの宣告を受けている人々に対してではない。神は彼らを将来、私たちよりも偉大な信仰者とされるかも知れない。彼らは神が創造し、彼のために独り子を十字架に付けるほどに愛しておられる、神の前に何者も犯すことの出来ない尊厳を持った人格である。それ故、私たちは「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明」しなければならないのである。

2016/4/26(火) 担当 ラウジー満世師  イザヤ書37:1-4 賛美 新聖歌449
 ヒゼキヤ王はアッシリアからの使者の恐ろしい挑戦の言葉を聞いた時、自分の力で事態を収拾しようとは考えなかった。彼は王として直ちにラブ・シャケがいる場所に向かうのではなく、主の神殿に行った。神に信頼せよと警告されてもアハズが神に従うことができなかったその場所に向かったのではなく、主の臨在の場所へと向かった。ヒゼキヤ王は敵からの恐ろしい挑発を聞いたときに神に信頼する道を選び取ったのである。イザヤがそのメッセージの中で人々に訴え続けて来た主に信頼することをついにヒゼキヤがここで行った。ヒゼキヤが神の前に出た態度は、神に対して現状について不満を述べるというものではなく、衣を裂き、粗布をまとうという悔い改めを示す態度であった。
 ヒゼキヤは神のことばに従って偶像礼拝を国内から排除した正しい王であった。そのヒゼキヤでさえも危機においてまず自らの罪を悔い改めた。本当の意味で神の前にへりくだることこそ救いへの第一歩である。

2016/4/27(水) 担当 高谷清師  ?ペテ15-16  賛美 新聖歌 355
 信仰者である私たちが抱いている希望について説明を要求する人には、正しい良心で、弁明できるように備えなければならない。これについてウェイン・A・グルーデム師は「正しい良心をもって」は、単に外面的な道徳性よりはるかに多くのものを要求する。このことは罪のない完全さが可能であることを意味するのではなく、クリスチャンは神の御前に「正しい良心」を持つように心がけるべきことを意味する。これは
(1)日ごとに神への意識的なもしくは意図的な不従順を避けることにより、
(2)生活の中で、どんな罪であれ気づいた時はいつでも赦し(とそれゆえの良心のきよめ)を求めて、ただちに悔い改めと祈りの実行を継続することで、維持できる。」
とウェイン・A・グルーデム師は述べておられる。「(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P171−172いのちのことば社)」私たちが福音の良き証人であるためには日々主と共に歩んでいることが大切である。

2016/4/28(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書37:1-4 賛美 新聖歌332
 続けてラブ・シャケの挑発に対するヒゼキヤの最初の応答について見てみたい。まず神の前に悔い改めたヒゼキヤは続いて預言者イザヤのところに使者を送った。ヒゼキヤはイザヤに助けを求めるときに出産に臨み危機に直面している母親のたとえを用いて訴えている。まさに命が危険にさらされている状態で、自分ではどうすることもできないユダの状況を伝え、「残っている者」(37:4)のために祈ってほしいと願っている。ユダに残っている者こそがイスラエルの民にとっての将来への希望である。またイザヤの長男の名前、シェアル・ヤシュブ(残りの者は帰るであろう、7:3)に託されたメッセージを思い起こす。
 ヒゼキヤが危機に際してまず悔い改めたこと、また彼が預言者に助けを求めた時に神から既に与えられていたメッセージを思い起こしていることは彼の信仰の基本的姿勢とそれが絶体絶命の状況においても揺るがなかったことを教えている。私たちも平時における信仰だけではなく、危機に臨んでこそ迷いなく神に従える信仰を持ちたい。

2016/4/29(金) 担当 高谷清師  詩編18: 26-31  賛美 26-32 新聖歌 5
 ダビデは「あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に、清い人には清くふるまい/心の曲がった者には背を向けられる。」と詠う。この箇所についてルターは「あなたは聖なる者には、聖なる者となられる。なぜなら、聖なる神の近くにいる聖徒は、聖さを自分のものにしないで、ただ神のものにするからである。そして彼らは真実の告白によって、自己の財産として罪のみを自分自身のものにする(ダニエル9:7〉。聖徒はこのような人にほかならない。聖徒がすべての聖さを神におく、このような真理の告白こそ、この聖さをこれらの聖徒に戻して彼らを聖なるものとする。(中略)ある人は清さによって汚され、また他のひとは罪によって清くせられる。このように汚されたり、清められたりすることは不思議ではないか。なぜなら、人がこの清さをわがもの顔にし、神にこれを与えないとすれば、どのような大いなる清さもみな汚されるからである。これに反して人が真の告白によって罪を自己のものとし、これを神のものにしないならば、どのように大きな罪もみな清められる。」(ルター・詩篇議解抄P91-92新教出版社1961)と述べている。パウロも「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。」(ロマ 3:4)と述べている。真と義と聖と栄光のすべてを神に帰し、へりくだって歩もう。

2016/4/30(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 15:1-6   賛美 新聖歌206
 羊飼いは、もし自分の飼う羊の一匹がいなくなったら、その一匹のために、崖を這い上がり、山や谷を駆け巡って探すであろう。そして見つけたなら、見つけた羊を担いで帰って来て友達や近所の人々を呼び集めて「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。主イエスは「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ 19:10)と言われた。そして主は「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ 15:7)と述べておられる。これらの事から主が魂の救いをいかに望んでおられるかがわかります。主の心を自分の心として福音を証しすることに励みましょう。”,,1050″