2014/11/10-15

2014/11/10 (月) 担当 高谷清師 ?コリ11:20-22  賛美 聖歌 154
 当時のコリントの教会においては愛餐会の後聖餐式を行ったようである。この箇所ではパウロは愛餐会について述べている。愛餐会、それは裕福な人々が食物を提供し、貧しい人々と共に会食した、美しい愛の交わりであった。しかし貧しい人々や奴隷は早い時刻には教会に来ることが出来なかった。長時間の労働に服さなければならなかったからである。裕福な人々は貧しい人々や奴隷の到着を待たず、勝手に食事を始めてしまった。貧しい人々や奴隷の人々が到着した時には裕福な人々はたらふく飲み食いし酔っている始末であった。しかも裕福な人々は遅れて到着するであろう貧しい人々や奴隷の人々のための配慮をしなかった。彼らが到着した時には食物はすでに無くなっている状態であった。しかも、裕福な人々は貧しい人々や奴隷の人々を軽んじた。愛の分かちあいの場が、貧しい人々に恥をかかせる場となってしまっていた。これは貧しい人々に恥をかかせるだけではなく、神の教会を見くびることである。このような状態を前にしてパウロは「わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません」と述べる。私たちは自分の恵まれた立場に奢り高ぶってはならない。常に謙虚になって愛に生きるべきである。

2014/11/11(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下9:1-12  賛美 新聖歌420  
 神殿建築を終え、ソロモンの治世における様々な事業が報告され、ついにソロモンの知恵について記されている。当時広く知られていたソロモンの名声を聞いてシェバの女王がソロモンを試しにやってきた。女王はソロモンに会う前から敬服していたわけではなかったが、実際に対面し、ソロモンの知恵を自ら確認し、ソロモンに仕える人々と国の状況を見たとき、確かにソロモンに与えられた知恵と富の素晴らしさを認めずにはいられなかった。彼女もフラムの王がそうであったように、ソロモンの素晴らしさの背後におられる神をたたえた。そして神はソロモンに公正と正義を行わせると述べている(8節)。
 神がソロモンに与えられたのは地位と富だけではなかった。それに加えて知恵も豊かに与えられた。そしてその知恵を通してもソロモンが偉大な人物として知られるだけではなく、ソロモンに祝福を与えておられる神がほめたたえられる。神を信じない人々が見るのは偉大な人物であるソロモンである。しかし、同時にその一人の人物を通して彼の背後にあって彼を祝福しておられる神が認められる。私たちの生涯を通しても生ける神が認められるのである。

2014/11/12 (水) 担当 高谷清師 ?コリ11:23-26  賛美 新聖歌 361
 この箇所においてパウロは聖餐について語る。それに先立って「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と語る。この箇所についてカルヴァンは『パウロは、この一節によって、教会においては、主の権威のほかになんら尊ぶべき権威はないことを、はっきりと明示する。かれの言おうとすることは、こうである。「わたしがあなたがたのところへやって来たとき、あなたがたに与えたものは、決して自分ででっち上げたものではなかった。わたしは、自分の欲望にしたがってあらたな晩餐をこしらえ上げたのではない。わたしのためにつくって下さったのはキリストであり、わたしは、キリストから受けたことをあなたがたに手うつしに伝えたのである。だから、この根源へもどりなさい。そうすることによって、いっさいの人間的なおきでは遠去けられ、ただキリストの権威のみが、確固として、不動のものになるであろう」。』(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P266新教出版社)と述べている。世にはキリスト信仰に関して多くの見解が存在する。それらは御言葉から出発したとしても、それを逸脱するものもある。私たちは常にみ言葉に立ち返り、それに立つべきである。

2014/11/13(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下9:13-31  賛美 新聖歌216
 ソロモンの治世についてはこの箇所をもって締めくくられる。この場面でもソロモンの富と繁栄について述べられている。ソロモンの王座の肘掛には12頭の獅子があしらわれている。ユダの家の出身で12部族を治める統一王国の王にはふさわしいモチーフであった。多くの富を持っていたソロモンは国々のなかでも力を持っていた。知恵と富と力において神の祝福を豊かに受け、神殿建築というダビデから引き継いだソロモンについて、歴代誌は素晴らしい報告でその治世の報告を終える。しかし、歴代誌はソロモンが王国分裂の引き金になる偶像礼拝をおこなったことを全く知らなかったわけではない。それはソロモンの時代の記録がアヒヤの記録に残されているという報告からも明らかである。アヒヤはソロモンの偶像礼拝のゆえに次の時代に王国が分裂することになると預言したのである(列王記上11:31)。
 歴代誌は間接的な表現ではあるがソロモンも完璧な人物ではなかったと述べている。歴代誌はダビデ同様、ソロモンについても礼拝の場所である神殿を整え、礼拝に必要とされる制度と体制を整えたという天において神に従った者であると記し、神の祝福を伝えているのである。

2014/11/14(金) 担当 高谷清師 ?コリ11:23-26  賛美 新聖歌 359
 続いてパウロは主が聖餐を制定されたときについて述べる。それは「引き渡される夜」であった。この箇所についてもカルヴァンは「かかる時間的な事情は、このサクラメントがいかなる目的のために設定されたかを、わたしたちに明らかにする。すなわち、それは、キリストの死の恩恵がわたしたちの中に確立されるためである。主は、もう少しはやい時期に、弟子たちにこのサクラメントを守るように、とお命じになることもできたはずであった。しかし、主は、御自身が犠牲として身をささげられる時までお待ちになった。それは,主がパンとぶどう酒によって象徴されたことが、そのすぐあとに御自身のからだによって真実に成就されるのをかれらが見るためであった」(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P266新教出版社)と述べている。更にレオン・モリスは「クリスチャンにとって、これほどの力と慰めとなるはずの愛餐とは、人の悪意が働いて救い主を裏切り、敵に渡す、まさにその時に制定されたとの、胸をえぐるような真実を、パウロは浮き彫りにするのである」(ティンデル聖書注解コリント人への手紙第1P191いのちのことば社)」と述べる。キリストの愛の深さ、強さに唯、感謝。

2014/11/15(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ1:29-31  新聖歌427
 シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは主に召されて弟子として仕えていました。主はシモンとアンデレの家に行かれました。そのときシモンの姑が熱を出して寝ていることが主に伝えられると、主はその病気を癒してくださいました。主は弟子として従うシモンだけではなく、シモンの家族のことも心に留めてくださっています。また、この姑の癒しの前後には汚れた霊につかれた男が癒されたことやシモンの家に連れてこられた多くの人々が癒されたことが記されています。主はあらゆる場所においてあらゆる病気を癒されました。確かに主は病に対しても権威を持っておられるのです。
 私たちの主は権威を持つお方であり、あらゆる病をいやす力のあるお方です。その方が主に従う者とその家族をも顧みてくださいます。今日も私たちを気にかけてくださる主に信頼して歩みましょう。”,,1047″