2013/3/11-16

 

2013/3/11(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 39-40 賛美 聖歌428
 著者がこれまで述べてきた旧約の聖徒たちは、その信仰の故に神に認められた(11:2)。しかし「約束されたもの」は手に入れなかったのである。「約束されたもの」とは何を指しているのであろうか。イザヤは「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザ 53:4-5)」と預言している。神は永遠の御計画によって私たちのために救い主を遣わしてくださることを多くの預言者を通して語っておられる。その救い主こそ、イエス・キリストである。そのお方が来られるまで、即ち御子イエスの来臨までは地上においては完全な救いにあずかることはなかったのである。
 

 

2013/3/12(火)担当 高谷満世師 列王記上3:16-28 賛美 聖歌594
 3章前半で神はソロモンに対して知恵に満ちた賢明な心を与えることを約束された(3:12)。それに続いてここでは実際に神がソロモンに知恵を与えられたことが記されている。
 二人の女がソロモンの前にいる。二人とも、生きている一人の赤ん坊が自分の子であって、死んだ子どもがもう一方の女の子どもであると主張する。二人の主張は平行線である。また、証人として立ちうる第三者も存在しない。このような状況では、一般的に神聖なくじを投げるか、あるいは無罪であると誓うか、あるいは献げものをささげて判定するのが一般的な手順であった。しかし、ソロモンはそのような方法を取らず、神から直接知恵を与えられたのである。二人の女性の主張する態度を見て、感情に流されて判断するようなことはなかった。
 神はソロモンに約束されたとおり、知恵を与えられた。そしてソロモンは感情に流されることなく、神から与えれた知恵によって裁きを行った。神から託された働きを成し遂げるための力は、神から与えられる。
 

 

13/3/13 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:39-40 賛美 聖歌453
 「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださった」即ち御子イエスの贖いの御業による完全な救いの成就である。神は、ご計画の時が満ちた時、御子を地上に送り、このお方を十字架に架けることによって私たちの罪の贖いの御業を成し遂げ、このお方を死人の中から甦らせることによって私たちの救いを完成してくださったのである。パウロは「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。(ロマ 1:3-4)」と述べている。また「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません(ロマ 3:21-22)」と語っている。これが新約の時代に生きる私たちに与えられている恵であって、それは限りない栄光に満ちたものである。旧約の聖徒たちが与かれなかった恵に与かっていることを感謝しょう。
 

 

2013/3/14(木)担当 高谷満世師 列王記上4:1-5:8 賛美 聖歌273
 ソロモンの王国の繁栄の様子が記されている。ソロモンには必要な高官たちが与えられていた。さらに、国が安定していくために必要な食料の安定供給のためのシステムも整えられていた。王国の地名も記されている。これらのことの中に、ダビデの時代からの王国の継続性が見られ、また地名においても人名においてもカナンとのつながりも見られる。それらのものを内包しつつ、ソロモンの王国は組織立っており、同時に豊かな国であった。そして人々は安らかに暮らしている。
 現実に人々が生活しているこの王国は、平和で繁栄している国であった。その背後にはやはり神の知恵が働いていたのである。このイスラエル統一王国の王、ソロモンの繁栄も、神の恵みによるものであった。私たちも同様に常に神の恵みのうちにとどまるときに、主の祝福があらわされる。
 

 

2013/3/15(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11:39-40 賛美 聖歌196
 前述のように、恵の時代に生きる私たちに提示されている救いの福音は限りない栄光に富んだものである。それでもなお、この福音を拒む人々が多くいることは残念である。本書簡の著者は先に「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます(ヘブ 2:2-4)」と述べた。ペトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです(使 4: 12)」と語っている。同胞の大多数がこの救いのことばを拒んでいることは大きな悲しみである。パウロは福音を拒む同胞のために「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています(ロマ 9:2-3)」と語っているが、これを先に救われた私たちの祈りとして仕えていきたい。
 

 

2013/3/16(土) 担当高谷清師 フィリピの信徒への手紙 4:6-7 賛美 聖歌476
 先日、友人の奥様が病に罹り入院された。入院に先立って主治医は御家族を呼んで病状と治療について説明をされたそうである。本人と御家族、関係者にとっては大変な心配事である。人生においてはしばしばこのような心配事に遭遇する。わたしたちがこのような問題に直面すると、右往左往しがちである。しかし御言葉は「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と忠告する。そして「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と約束する。肉なる私たちは、一寸先は闇である。しかし主は愛なるお方であり、全知全能であり、全てに対する勝利者である。このお方にすべてを委ねよう。主の平安があなたの心を満たすように祈ります。