2022/3/14-19

2022/3/14(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ 4:1-5  賛美 新聖歌 38

 新共同訳聖書はこの箇所に「背教の予告」という見出しを付している。1節においてパウロは「しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。」と述べている。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいるということは「霊」がパウロに告げられたことである。ぺトロも「まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ」(?ペト 3:3)と語っている。更にヨハネは「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」(?ヨハ 4:3)と語っている。教会はいつの時代にも惑わす霊と、悪霊どもの教えとたたかってきた。そして主イエスは「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタ 10:16)と教えておられる。今や、終末の時を迎えて惑わす霊と、悪霊どもの教えはその度を増している。聖霊に満たされ、目を覚ましてそれらの誤った教えに対処しょう。

 

2022/3/15(火) 担当 ラウジー満世師 マラキ書1:11-14 賛美 新聖歌390

 主の民の中で人々を神の前にとりなして礼拝を司る立場にある祭司たちが規定に外れた犠牲をささげて神の名を汚している。しかし一方では神の名は諸国の間で崇められている。各地に散らされていたイスラエルの人々がそれぞれの地で神を崇めているということだろうか、あるいは、異邦人たちもが真の神を崇めているということだろうか。いずれにしても、いやいやながら、心のこもらないままにでも礼拝の形式だけは守っている祭司に対して、この他の場所で神の名が崇められていると言うことは何とも皮肉である。神はたとえ祭司として選ばれた人々が率先してその御名を汚そうとも、決して神ご自身が貶められるようなお方ではない。人間の態度によって神の御力と栄光が傷つくようなお方ではない。

 今日礼拝をささげる者として、主の御前に出るときの心が問われている。主を愛し、主を崇めて、私たちのすべてをもって主を礼拝しよう。

 

2022/3/16(水) 担当 高谷清師 テモ 4:1-5 新賛美 新聖歌 316

 「惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者」が起こるのは、「偽りを語る者たち」の偽善によって引き起こされるのである。「偽りを語る者たち」についてパウロは6章で「異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです」(?テモ635)・「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(?テモ6910)と語っている。彼らの本心は利己心と金銭欲である。それを、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりする偽善によって覆い隠そうとする。そのような者達の暗躍する中を「わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩 119:105)なるみ言葉によって勝利の歩みをしょう。

 

2022/3/17(木)担当 ラウジー満世師 マラキ書2:1-4 賛美 新聖歌390

 神に従わず、神の名に栄光を帰さなかった祭司たちに対して、神は大変厳しい命令を下される。その処罰の内容は3節に断言されている。祭司が規定に合わない犠牲をささげた、その捨てられた部分を神ご自身が祭司の顔に浴びせられる。想像するにおぞましい状況である。私たちは「愛の神がそのようなことをなさるはずがない」と言いたくなるだろう。しかし、神はこのような厳しい裁きを宣言されるまでに何度も祭司たちに警告し、正しい礼拝をささげるように警告し続けられた。それでもなお神に背き、自らの職務を正しく行わないだけではなく、民のためのとりなしてとして民が神の前に罪と汚れを取り除かれるその手段を汚したものに対して、神のさばきは明確であり、厳しい。

 神の恵みのとりなし手として用いられることは大きな恵みである。神によって義と認められたにすぎない罪びとの私たちを用いて神は人々が主の御前に出るための道を開き、そのために救われた聖徒を用いて下さる。この大切な働きを託された者は、恐れと謙遜をもって、正しく神に仕えなければならない。そのように主に仕えることが出来るように助けて下さる聖霊に頼ろう。

 

2022/3/18(金) 担当 高谷清師 詩 66:18-19  賛美 聖歌 265

 詩人はかつて苦難の中に在った時、神に祈り、その祈りは聞き入れられ、苦難から解放された。その恵みを前に「わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう。しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け/聞き入れてくださいました。」と詠う。ヤコブは「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。」(ヤコブ4:24)と語る。そして「神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。」(ヤコブ4:78)と語る。またヘブライ人への手紙の記者は「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル 12:4)と語っている。私たちは常に悔い改め、御子の血潮を仰いで罪の清めを頂き主に喜ばれる道を歩もう。

 

2022/3/19(土) 担当 高谷清師 ヨハ11:1-44 賛美 新聖歌 284

 この箇所にはイエスとラザロ、その家族の記事が記されている。イエスとラザロの家族とは以前から親しい交わりを持っていたようである。5節には「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と記されている。ラザロが病気になったので姉妹たちはイエスのもとに使いを送り、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。その知らせを受けた時、イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と言い、なお二日間同じ所に滞在された。その間にラザロは死んだ。イエスが到着された時、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。マルタはイエスに「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言った。この言葉には「イエス様、どうしてすぐに来て下さらなかったのですか、すぐに来てくださっていたらラザロは死ななかったでしょうに。死んでしまえばもうおしまいです。」と言った思いが込められているように思われる。イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と言い、このラザロを生き返らせてくださった。

 イエスはマルタたちの求めに応じてすぐに来て癒しを為すことはなさらなかった。しかし、死んだラザロを生き返らせることによってご自身が命の主であることを示されたのである。神は私たちの祈りに直ちにその求め通りにはこたえられないかも知れない。しかし神は私たちの真の必要を知り、それに応えてくださるお方である。